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2019年3月 8日 (金)

藤原実政と鹿子木庄2

 ただしこの女性は保延元年(一一三五)に生まれ、久安四年(一一四八)に一四才で死亡している。これにより本家職は内親王の菩提寺勝功徳院をへてその本寺仁和寺に移ったとされる。保延六年一〇月二七日には高陽院が新造された正親町殿に渡御しているが、その際に鳥羽院とともに姫君(叡子内親王)も渡御している。
 安元二年(一一七六)三月二日鹿子木庄文書目録(東寺百合文書)には「庄号時院使主典代俊弘立券〈保延五年十一月日〉一通」とあり、高陽院内親王への寄進は保延五年七月二八日の泰子への院号宣下、八月一七日の体仁親王(近衛)の立太子の直後に行われている。泰子の鳥羽院への入内は長承二年(一一三三)、翌年には女御、さらには皇后宮に立后しており、鳥羽院が女御であった得子の子を子のいない高陽院の養女として将来に備えたのであろう。この目録を作成するとともに、同日に預所を補任した寛杲は願西の子であった。
 長承三年三月一九日に泰子の皇后宮に関する除目が行われているが、大夫は異母弟頼長、権大夫源師俊と亮源信雅は父忠実の家司と摂関家関係者が占め、権亮以下の実務役人は鳥羽院近臣が配置されている。権大進日野資憲は、後には鳥羽院庁下文の署判者としてもみえるが、その一方では摂関家家司の側面も併せ持つ日野実光の子であった。実光とその同母弟で、且つ資憲の妻の父である資光は大宰大弐実政の孫でもある。現地に派遣された「主典代俊弘」についても鳥羽院庁下文に署判している主典代とは別人だが、院の関係者であろうか。

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