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2019年3月15日 (金)

持明院氏と女院分国2

 清隆と忠隆が鳥羽院別当も兼任していたのに対して、通基は女院別当に専念しており、実質的に女院別当の中核となる人物となった。通基が大治二年末に武蔵国から遷任した因幡国は、女院の侍でしかなかった卜部兼仲が国守に補任されたことで周囲から驚きの目で迎えられた石見国とともに、女院の分国とされたと思われる。次いで長承三年二月二四日には通基の娘を妻とする西園寺公通と相博する形で通基は丹波守に遷任した。後述のように女院分国は因幡国のままであった。
 時代が相前後するが、因幡守時代の通基は大治四年一月に摂政藤原忠通の娘聖子が崇德天皇のもとに入内した際の儀式で三献をつとめ、同年四月一九日鳥羽院と待賢門院の第二皇女が賀茂斎院となった際には供奉している。そして前述のように八月一六日には女院別当に補任され、翌五年一月六日の除目で従五位下から正五位下に加階され、驚きを持って迎えられた。次いで長承元年一月九日の除目で因幡守重任を認められた。この除目では備前守平忠盛と武蔵守藤原公信も重任を認められた。長承三年二月一七日の法勝寺金字一切経供養に伴う勧賞で通基は女院分として正四位下に叙され、一週間後の二四日に丹波守に遷任した。
 通基の後任として因幡守に補任されたのは通基の娘を妻とする西園寺公通であった。公通は六才で叙爵後、大治二年(一一二七)に一一才で丹波守に補任された。丹波国は父通季の知行国であった。翌年、三九才の父を喪ったが、その地位に変更はなかった。これについて五味文彦氏は、公通が院近臣藤原長実に婿入りし、長実が知行国主の座を継承したと評価している。ただ、公通の子に長実の娘を母とするものは確認できず、持明院通基の娘との間に二人の男子をもうけている。前述のように、父通季と聟入りした長実が死亡したのにもかかわらずに公通が丹波守であり続けたのは、通季死亡後に丹波国が待賢門院の分国とされ、甥公通の地位が継続されたのではないか。長実が知行国主であった時期にも、その上に分国主待賢門院がいたのである。
 因幡守補任時の公通は一八才であり、待賢門院分国が丹波国から因幡国に遷り、そのもとでの国守補任ではなかったか。因幡守在任中に公通は従四位下、従四位上に叙せられ、右少将を兼ねて、崇德天皇への昇殿を許されている。二二才となった保延六年四月には因幡守を辞して、翌永治元年一二月二日には右中将に補任され、七日に近衛天皇が即位すると、新帝への昇殿を認められ、二六日には正四位下に叙せられている。

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