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2019年3月15日 (金)

持明院氏と女院分国

  通基についてはすでに述べたが、叔父宗通とその子達との関係で叙爵し、右衛門佐をへて大治元年頃には武蔵守に補任された。それと平行して待賢門院女房(源師仲の娘)を妻とする中で、女院との関係を強めたと思われる。大治二年一〇月には女院の子崇德天皇から昇殿を認められ、殿上人となっている。通基の子基家は長承元年(一一三二)生であり、その他の子女の生年は不明だが、同母兄として通親と通重がいる。通重は徳大寺実能(系図の公能は誤り)の娘との間に久安三年(一一四七)に能保が生まれている。また母が不明な娘が西園寺公通との間に、久安元年に嫡子実宗を産んでいる。通重は大治初年頃の生まれで、それ以前に通基が待賢門院女房を妻としたことがわかる。
 待賢門院の院号宣下は天治元年一一月二四日で、女院別当には従来の中宮時の関係者が横滑りしたが、白河院が死亡後の大治四年八月二八日には別当が新たに補任された。讃岐守藤原清隆、藤原隆教(忠隆の子)、修理大夫藤原顕盛(長実の子)、備中守藤原忠隆、美濃守藤原顕保(家保の子)、因幡守藤原通基等である。
 この内、隆教は忠隆と藤原顕隆の娘で崇德天皇の乳母となった栄子の間に生まれた嫡子であったと思われる。康治元年七月五日の土御門殿行幸に供奉しなかった事により、左兵衛佐を停任され、一〇月二二日に還任したが、一二月五日には父忠隆に先立ち死亡している(『本朝世紀』)。顕盛は鳥羽院の不興を買い、父長実から譲られた修理大夫を解任され、長実死亡からわずか五ヶ月後の長承三年正月二五日に死亡した。顕保も家保の嫡子であったが、鳥羽院の寵臣となった同母弟家成により公卿昇進を妨げられ、播磨守在任中の久安元年に死亡した。

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