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2019年3月15日 (金)

丹波守西園寺公通1

 公通は西園寺家通季の嫡子で、一一才であった大治二年(一一二七)一月に父の知行国であった丹波国の国守に補任されたが、翌三年六月に父が死亡した。ところが丹波守の地位には変更がなく、長承三年(一一三四)二月に因幡守に遷任している。五味文彦は公通が藤原顕季の嫡子長実の聟となり、丹波国は父通季から養父長実の知行国となったとの解釈を示された。丹波国が長実の知行国であることは確認できるが、公通の聟入は大治五年一二月の事であり、父の死から二年半後のことである。また、長実も長承二年八月に死亡したが、これまた公通の丹波守としての地位には影響を与えていない。この点について検討したい。
 公通は西園寺家の後継者であり、長実の養子となるのではなく、その娘聟となったはずである。その娘とは誰であろうか。長実の娘としては中御門宗能の妻となり、嫡子宗家を産んだ女性と近衛天皇の母得子(美福門院)、夫や子は不明な長子が知られている(尊卑分脈)。生年がわかるのは永久五年(一一一七)生の得子のみである。宗能の妻については、子宗家が保延五年(一一三九)生であるので、得子に年齢が近い可能性が高い。
 残る長子もまた同世代で、公通を聟としたとの説は可能だが、子をなさなかったにしても系図に記載がないのは解せない。公通と同い年である「鍾愛女子」得子の聟であった可能性もある。それが鳥羽院の目にとまり、結果的に得子は鳥羽院の後宮に入ったのではないか。また得子の母は長実の後家方子であると系図は記すが、方子は長実より年上で、得子が誕生した時点で五二才であり、生年が正しければその成り立つ可能性はない。

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