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2019年3月 8日 (金)

藤原実政と鹿子木庄1

 高校日本史教科書に寄進地系荘園の典型として扱われる鹿子木庄については、石井進氏による事書作成の背景の解明以降見直しが進んでいる。ここでは寄進を受けた藤原実政について述べてみたい。
 藤原実政は日野資業の子で、学問を修めて後三条天皇の親王時代(藤原氏関係の皇子が誕生すれば皇位継承は不可)の学士となり、その姉妹が貞仁(白河)の乳母となったこともあり、貞仁の東宮学士となり、後三条が即位すると左中弁に登用され、譲位後は院庁別当となった。
 後三条の急死後も引き続き白河天皇に登用され、蔵人頭を経て承暦四年(一〇八〇)には従三位参議、永保四年には大宰大弐に補任され、現地に下向した功労により従二位に叙せられた。ところが宇佐八幡宮との紛争により、実政は子の左少弁敦宗とともに解官され、配流先の伊豆国で死亡した。敦宗は後に許され、大学頭・東宮学士を歴任したが、日野氏の惣領は実政の異母兄実綱流に移った。
 鹿子木庄領家の地位は実政の失脚により、その娘を妻としていた閑院流藤原公実をへて、両者の間に生まれた娘を妻とした藤原経実に移った。鹿子木庄を高陽院内親王に寄進した願西とは公実女子と経実の間に生まれた隆通の法名である。公実と経実は公卿に進んだが、隆通は正五位下刑部大輔にとどまったため、権威を借りるため高陽院内親王に寄進した。
 問題は高陽院内親王であるが、鳥羽天皇の皇女との解釈一般的であるが、鎌倉佐保氏「寄進地系荘園を捉え直す-鹿子木荘の問題点-」(『地歴・公民資料』、実教出版社)には高陽院泰子との解釈がなされている。「事書」が内親王と院を誤記したかとも一瞬思ったが、やはりあり得ない解釈であり、美福門院得子の第一皇女叡子内親王が高陽院の養女となっており、この高陽院姫君と呼ばれた女性であろう。

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