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2019年2月21日 (木)

牧(大岡)氏の補足

 『閑谷集』の内容を確認するため、加藤秀行氏『貴重な郷土資料『閑谷集』を読む』(二〇一六)を購入した。活字となっているものもあるようだが、ネットで公開されている『肥前松平文庫』本を眺めるとほとんどがひらがなで、予備知識なしに理解は不可能と思ったことと、この本と文庫のものを対照しながら、変体かなに対する勘を取り戻すためである。
 作者の名前は不明だが、伊豆国大岡庄を支配にかかわる家の関係者である可能性は高い。領家職を所持する平氏(忠盛・池禅尼とその子である家盛・頼盛)についても、家盛の死亡に関する記事が記されており、承知していた人物である。ただし、後の六波羅探題につながる幕府の京都代官であった牧四郎国親(建久三年と四年)と筆者の父(建久五年一一月二二日に死亡)との関係は不明である。同一人物に比定する説があることは理解はできる。
 建久五年に国親の後任の代官となった「三条左衛門尉有範」については、平賀朝雅殺害に関わった「五条判官有範」と同一人物である可能性がある。承久の乱の時点では「五条筑後守従五位下行平朝臣有範」とみえ、京方の罪により後藤基清、佐々木広綱などとともに斬られている。まだ精読はしていないが、朝雅の乱に関する記事はなさそうである。
 『吾妻鏡』をみると、平忠盛の聟である下総国千田庄領家判官代親政が平家方として千葉常胤らと戦い生け捕りとなり、相模国から渡海してきた頼朝の前に差し出されている。それを含めて「親」の字を付けている武士は敵・御方とも多い。大岡宗親に関する記事は『吾妻鏡』中に予想以上に多く、個々について確認したが、その子である時親との混同は考えにくい。『吾妻鏡』には時政失脚以降、大岡氏に関する記事はないが、「牧氏」については『鎌倉遺文』等で検索すると関係文書を確認でき、御家人としては存続していた。

 

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