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2019年2月13日 (水)

院分国と知行国

 国守は朝廷から補任され記録が除目の中に残るが、知行国や治天の君の分国を除く院分国についてはその人物に賜ったとの情報が残るかどうかは偶然に作用される。知行国主は関係者を国守に朝廷に任命してもらうもので、国守の場合と異なる収入があるかはよくわからない。治天の君ないしはそれに準ずる人物の分国ならば、除目の記録や公卿補任にも「院分」と記されることが多いが、それ以外の女院の分国は知行国と変わらない気がする。五味文彦氏によれば、一年間のみ女院の分国とする形から、知行国主と同様に国司の任期にそって継続する女院の分国が登場するようになるのは後期白河院政からで、待賢門院分からではないか。ところが、待賢門院に関する研究はほとんどなされておらず、実態がある程度判明するのは美福門院分以降で、待賢門院の子上西門院や美福門院の子室町院が中心である。
 それぞれの国で実権を持つのは在庁官人等を率いて運営にあたる目代で、国守が交替しても継続する場合も多いが、場合によっては新国守が旧任国の目代を起用する場合もある。吉田経房は兄の死により伊豆守に補任されたが、国主は父光房で替わっておらず、目代もそのままであったと思われる。問題は父光房の死亡時であり、国守が交替することもしばしばみられる。それが交替しなかったのは国守が成人して国務を行える場合と父に代わる保護者がいる場合であろう。いずれの場合も目代は同一人物が継続して国務を行う。 
 吉田経房と北条時政の関係を記した後世の史料を採用した論者は、父の死により経房が伊豆国の国務をとったと解釈したのだろうが、如何せん父の死亡時に一三才の経房が国務をとる可能性はほぼゼロであり、時政が四才年下である経房の対応に感心することもありえないことである。安房守に遷任した時点でも一八才であり、やはり舅である平範家がサポートしたと考えられる。目代も伊豆国時代の人物が起用された可能性が大きい。次いで二三才で安房国知行国主となり、国守には藤原有経を起用した。その名前からして一族の関係者であろうが系譜上の位置づけは不明である。さらに二七才の時には子定経、三五才時には弟定長を国守として、知行国主であり続けた。
 吉田経房の父光房とその兄弟憲方の関係について、混乱した面があったが、尊卑分脈では光房の方が年上だとしているが、国司と知行国主を扱う論文では『識事補任要記』に基づき、憲方が兄で三才年長とされる。両者の任官暦をみても後者が正しいと思われるので、ここで確認しておく。

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