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2019年2月12日 (火)

藤原公佐をめぐって4

 なお、俊成の義兄顕頼について、角田文衞氏は早くから待賢門院に反感を抱いていたとされるが誤りである。その事は、女院が死亡する久安元年八月二二日の直前(八月一八日)に顕頼が崇德天皇の御願寺成勝寺に丹波国福貴御園を寄進していることでわかる。家成も保延三年三月一九日に藤原忠実の娘泰子が女御から皇后となった際には皇后宮言大夫に補任され、同五年五月一八日に得子が体仁親王(近衛)を生み、八月一七日に立太子されると春宮権大夫に補任されているが、その一方で、待賢門院没後の久安元年一二月二七日には成勝寺に山城国久世御園を寄進している。佐伯氏は体仁親王の春宮大夫源師頼が就任三ヶ月後の保延五年一二月四日に死亡した事をうけて翌六年三月二七日に待賢門院の同母兄徳大寺実能が春宮大夫に就任している事から、体仁誕生以前から、鳥羽院と美福門院との間に男子が誕生した場合には、崇德の養子とすることで、崇德院の外戚閑院流との間で合意・了解ができていたとしている。
 以上は、成親・隆頼兄弟が崇德天皇との深い関係のもとに出生しているという点を確認した。なお、待賢門院別当で源義朝と待賢門院・崇德の間をつないだことを述べた藤原清隆も保延五年八月一七日に春宮亮に補任されている。清隆主導で義朝が従五位下下野守に補任されたのはその一四年後の仁平三年三月二八日であった。
(補足)池禅尼の父宗兼の姉妹で、藤原家成の母で、崇德天皇の乳母であった女性は大治四年(一一二九)一月二十四日に四三才で死亡している。寛治元年(一〇八七)年の生まれである。

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