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2019年2月 8日 (金)

義朝の叙爵・任官の背景2

 範忠の叙爵については、これまた二〇年以上前に死亡した白河院の三歳年上の同母姉聡子内親王の未給分による合爵であった。まさに、鳥羽院ではなく白河院の遺産に基づくものであり、白河・鳥羽・待賢門院・美福門院の近臣であった清隆主導によるものであり、義朝の関係で範忠も叙爵したものである。
 義朝が関東へ下り活動の拠点としたのは上総国と相模国であった。二度にわたり義朝が伊勢神宮領大庭御厨に介入した際の相模守は藤原頼憲で、その父憲方が知行国主であった。この点については五味文彦氏「大庭御厨と「義朝濫行」の背景」と元木泰雄氏「保元の乱における河内」が指摘しているが、それにはとどまらない。憲方の前任の知行国主は平実親で、長承三年閏一二月以降、子の範家と親家が九年間にわたって相模守を務めている。さらにその前任者は藤原隆盛で、知行国主は父清隆であった。範家と清隆の関係は前述の通りであるが、範家の母は勧修寺流藤原為隆の娘であり、憲方の姉妹である。範家の娘は吉田経房の妻となるが、経房の父で、憲方の同母兄光房が死亡した時点で経房は一三才で、その三年前に異母兄(母は源有憲の娘)で伊豆守であった信方が死亡したことにより伊豆守に補任されていた。知行国主は父光房であったが、死亡した事により、妻の父範家が後見した可能性が大きい。範家は清隆の娘を妻とし、経房は範家の娘を妻とした。いずれも待賢門院流に属する人々である。
 範家の経歴をみると、大治五年一一月二九日に崇德天皇の蔵人に補任されているが、白河院蔵人と待賢門院判官代を経てのものであった。その後、相模守在任中の保延五年八月には鳥羽院と美福門院の間に生まれた体仁親王の春宮権大進を兼任している。父実親は右大弁時範の子であるが、天治元年一一月二七日には中宮璋子が院号宣下を受けたことにともない、中宮権大進から女院判官代に転じている。
 憲方の父為隆は為房の子であるが、為房の妹が待賢門院の母光子である。憲方は周防守在任中には保延元年に供養が行われた女院御願寺法金剛院の東新造御所の造進を行い、その功により正五位下に叙されている。その後、皇后得子の皇后宮大進を務める一方で、康治二年七月には統子内親王(前斎院、上西門院)が新造三条室町殿に渡御する際には、大蔵卿藤原通基(待賢門院別当)、越後守源資賢(白河院の近臣有賢の子、鳥羽院庁別当)とともに、年預として右衛門権佐憲方(鳥羽院庁別当)が中心的役割を果たしている。

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