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2019年2月

2019年2月25日 (月)

源頼政をめぐって3

 以仁王は後白河の第三皇子で、その母成子は六人の子を産んでいる。第一皇子であった二条天皇の母(藤原経実の娘)は出産直後に死亡しており、天皇即位が決まる以前の後白河の唯一の妻とでもいうべき存在である。成子は待賢門院の異母弟季成の娘で、その長男というべき存在が以仁王で、二条天皇の八才下であったが、諸般の事情から皇位継承の可能性は低くなり、美福門院の娘八条院の猶子となっていた。
 以仁王は天台座主最雲法親王の弟子となり出家したが、最雲の死により一五才となった永万元年(一一六五)に還俗した。最初の妻として確認できるのは藤原光能の父忠成の娘で、その間に天台座主となる真性が生まれている。忠成の娘は徳大寺実定の従姉妹にあたり、光能と同様待賢門院流に属していた。以仁王と忠成娘との結びつきは、光能が後白河の近臣となる以前のことであった。その後、以仁王は八条院の寵臣三位局(高階盛章の娘)との間に三条宮姫君をなしている。永井氏によると嘉応元年(一一六九)の生まれであり、この時点までに以仁王と八条院の間の関係が生まれたとする。三位局の父高階盛章は鳥羽院近臣であるが、父宗章は待賢門院別当でその姉妹には待賢門院女房遠江内侍がおり、盛章の姉妹にも待賢門院女房加賀がいた。
 待賢門院流は保元の乱で分断されたが、その子統子内親王と一才年下の後白河が生き残ったことで存続した。ただし後白河の位置は微妙であり、待賢門院流の人々の新たな結節点となったのは、待賢門院領の大半を相続した上西門院(統子)であった。ここでは詳細な検討はしないが、平治の乱の首謀者の大半は待賢門院と深い関係のあった人物である。藤原信頼と源義朝はいうまでもなく、二条天皇派の人々もそうである。彼らが新政権の核としようとしたのは、藤原経実と待賢門院の姉妹との間に生まれた女性を母とする二条天皇であり、その父後白河ではなかったと思われる。

源頼政をめぐって2

 次いで永井氏が説くように延慶本『平家物語』に記される御所の鵺退治により、伊豆国知行国主頼政、守はその嫡子仲綱という体制は、女御滋子の侍であった隠岐守中原宗家が伊豆守に遷任してきた仁安二年一二月三〇日まで続いたと思われる。宗家は院号宣下後の建春門院庁でも大属を務めており、宗家が国守であった時期の隠岐国と伊豆国は女院の分国であった可能性が大きい。
 二条天皇は永万元年七月二八日に二三才で死亡し、三才(生後一年八ヶ月)の六条天皇が即位した。これにより後白河院による院政が復活したが、六条天皇の実質的外戚徳大寺氏などの天皇の支援勢力は健在で、後白河が滋子の子憲仁の立太子を行ったのは一年後であった。仁安元年一〇月二一日に頼政が正五位下に叙せられ、一二月三〇日には六条天皇への昇殿を認められた。頼政は翌二年一月三〇日に従四位下、三年一一月二〇日には従四位上に叙せられている。この間、三年二月一九日には六条天皇は退位し、後白河と滋子の子憲仁が即位して高倉天皇となったが、退位した五才の六条院とその支援勢力は健在であったことがわかる。頼政はその後も承安元年一二月一九日には正四位下に叙され、同三年一月一九日には右京権大夫とともに備後権守を兼ねている。次いで安元二年二月五日には頼政自身が右京権大夫と備後権守を辞することで、嫡子仲綱が正五位下に叙せられている。同じ頃、嫡子仲綱が隠岐守から伊豆守に遷任し、頼政が再び伊豆国知行国主となった。
 こうした状況のもと、六条院が安元二年七月一七日に一三才で死亡した。これは六条院派にとり打撃となり、両官を辞任した頼政は散位のままであった。子の任官と引き換えに職を辞したとしても多くの場合はまもなくより高い官職に補任されることが普通であるにもかかわらず。そうした中で頼政と清盛の関係が生まれ、治承二年一二月二四日に清盛の奏請により頼政の従三位=公卿叙任が実現した。この間、安元三年六月には鹿ヶ谷の陰謀事件が起こっているが、今回は触れずに後に回すことにする。
 永井氏は治承三年一一月のクーデターで後白河院を幽閉した清盛が、反平家の核となる可能性のある以仁王を排除するため、美濃源氏源光長とともに頼政の養子兼綱の追討使派遣を決めたことにより、本来、以仁王に加担するはずのない頼政が、王とともに挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたとする説を示した。頼政は清盛が考えた以上に事態を穏便に処理するため、以仁王に派遣を知らせる使者を送ったが、以仁王が予想に反して御所を脱出したため、追討使派遣は空振りに終わってしまった。これにより自らの通報と養子兼綱の失敗による責任追及を恐れた頼政が以仁王との合流を選択したとするものである。この説が成り立つためにはクリアーすべき課題がたくさんあるように思えるというのが本ブログの当座の見解である。

源頼政をめぐって1

 歌人として知られ、以仁王とともに反平家の兵を挙げたとされる源頼政については、近年永井晋氏『源頼政と木曾義仲』の中で分析されているが、とりあえず以下で確認してみたい。
 頼政は源満仲の子頼光を祖とする摂津源氏に属している。頼光の子頼国はその娘を勧修寺流藤原為房を初めとする有力公家のもとに嫁がせている。それは頼国の子頼綱も同様であった。頼綱の子が頼政の父仲政であるが、その兄弟には美濃国山県郡を拠点とした山県国直がいる。姉妹には関白藤原師通の側室、待賢門院別当源能俊室で嫡子俊雅の母となった女性の外に白河院の後室に入り官子内親王を産んだ女性、藤原盛実娘との間に藤原頼長を産んだ女性もいた。
 仲政は堀河天皇蔵人(『中右記』嘉保二年六月二〇日条)、皇后宮大進(『殿暦』天仁元年五月一七日条)、下総守(『中右記』元永元年二月五日条)を歴任し、保安四年一一月一日には「前下野守源仲正随身が源義親と称する者を捕らえている(『百錬抄』)。系図には兵庫頭であったとの記述もある。
 頼政の母方の祖父友実は藤原南家季綱の子であったが、三七才で死亡し、その異母弟尹通が白河院近臣となった。頼政も保延二年四月一七日に三三才で、四年前に死亡していた白河の女御道子の未給分として崇德天皇の蔵人に補任された。鳥羽院ではなく白河院-待賢門院-崇德天皇系に属していた。それが仁平三年二月には美福門院への昇殿を許され、女院との関係を強めた。久寿二年一〇月二二日に兵庫頭に補任されたのは女院との関係であろう。
 保元の乱で頼政は源義朝と同様後白河方となり、保元三年八月一一日に女院の養子となっていた後白河の子守仁(二条天皇)が即位すると、その直後の二三日には坊官(春宮関係者)賞として頼政の嫡子で蔵人であった仲綱が叙爵している。平治元年一二月に藤原信頼が源義朝、さらには後白河院近臣信西入道に反発する二条天皇派と結んでクーデターを起こし、一二月一四日の除目で頼政は伊豆国を知行国として与えられたとする(『参考平治物語』)。クーデターそのものは二条天皇派が離脱して熊野詣から帰洛した平清盛と結んだことにより失敗したが、二条天皇派である頼政への恩賞はそのまま認められたと思われる。天皇の養母となっていた美福門院は永暦元年一一月二三日に死亡しているが、その後の天皇の後ろ盾となったのは実質的外戚であった徳大寺氏であった。

2019年2月21日 (木)

藤原光能3

 後白河院とともに平清盛との関係も強めた形だが、滋子の母は勧修寺流藤原顕頼の娘であったこともあり、滋子は待賢門院の子上西門院女房となっていた。その異母弟平親宗も待賢門院別当藤原基隆の娘が母であり、その子親国も待賢門院別当藤原清隆の嫡子光隆の娘を妻としていた。文治元年一二月に親宗は頼朝の要求により解官されたが、それは義経との関係による一時的なもので、その後まもなく復任している。藤原朝方も勧修寺流で待賢門院流の一員であったが、一方では奥州藤原氏と深い関わりを有していたため、議奏公卿には推薦されなかった。後に義経と与同しているとして、一時出雲国知行国主を解任されたが、これも短期間で復帰している。
 光能の立場も後白河派・清盛派というよりも滋子派(上西門院女房から建春門院女房に転じた例も多い)というべきもので、安元二年一二月五日には滋子の子高倉天皇の蔵人頭に補任された。同年七月八日に滋子が死亡したことで、後白河院と清盛の間に亀裂が生じるが、光能が選択したのは待賢門院の子後白河院であり、治承三年一〇月には参議に補任されたが、翌月の清盛のクーデターで解任された。
 光能には東国御家人足立遠元との間に二人の男子がいたとされる。弟と思われる光俊は公卿になったため、その経歴を確認でき、頼朝挙兵前年の治承三年の生まれである。遠元そのものは平治の乱で義朝方として参陣して敗北したが、生き残り、挙兵以前から頼朝と連絡を取っていたとされる。藤原光能と遠元娘の結婚も「待賢門院流」という分脈で理解が可能であるし、東国武士が公家社会と結びついていたことを示す事例である。光俊は一二才で叙爵し、四年後に一条高能の働きかけで讃岐守に補任されている。高能は一条能保と頼朝の同母妹坊門姫の間に生まれ、能保が讃岐国知行国主であった。そのもとで国守に補任されたのは藤原家成の嫡子隆季の子隆保であった。隆保の母は待賢門院別当藤原基隆の嫡子忠隆の娘であった。隆保の後任中原光俊を間に挟んで、藤原光俊が讃岐守に補任された。
 以上のように光能の立場は「待賢門院流」であり、平清盛とは一線を画すものであった。頼朝の挙兵に光能とその後室の父足立遠元が関わったのは当然の選択であった。その光能と頼朝の父義朝を「後白河院近臣」と決めつけてしまうことは、実態解明の妨げにしかならない。
※修正:知行国主藤原能保のもとで讃岐守に補任されたのは源能保であったが、公卿補任の当該記事を認識しておらず、『仙洞御移徙部類記』活字本の注記「隆保(藤原)」により、下線部のように隆季の子隆保と誤ってしまった(「一条能保と源隆保」を参照のこと)。

藤原光能2

 光能が一五才で叙爵したのは統子内親王未給であるが、その背景としては母方の曾祖父藤原敦家の存在があった。敦家の妻兼子は堀河天皇の乳母であり、その子敦兼は待賢門院別当であった。敦兼の同母妹が光能の祖母であった。光能の姉妹は徳大寺公能の妻と持明院基宗の妻となっている。公能は待賢門院の甥であり、基宗は待賢門院別当通基の子基家を父とし、上西門院女房因幡を母としていた。ただ、保元の乱で待賢門院の嫡子崇德院が失脚したことにより、光能が従五位上に叙せられたのはその一八年後の長寛二年一一月一六日であった。一ヵ月前の一〇月二三日には従兄弟(忠成の同母妹が母)である徳大寺実定が権大納言に補任されていた。
 翌年八月一七日に実定は正二位に叙せられたが、権大納言を辞任している。これに替わって権大納言に補任されたのが平清盛であった。その背景には二条天皇が六月二五日に死亡し、二才の六条天皇が即位したことがあった。徳大寺家は二条天皇と六条天皇の実質的外戚の立場にあった。光能も二条天皇派であったが、二条天皇の死により主導権を取り戻した後白河院は、清盛の妻時子の異母妹滋子の産んだ憲仁に親王宣旨を行い、翌仁安元年に立太子、同三年二月には高倉天皇として即位させ、院政が復活した。
 永万元年一二月に光能は下野守に補任されたが、これは藤原懐遠が辞任したことで実現した。懐遠は待賢門院判官代日野資光の妻で待賢門院女房であった関屋の兄弟であった。それが仁安二年正月二八日には院司となっており、二条天皇・六条天皇派から後白河院派に転じたことがわかる。同三年三月二八日には皇太后入内賞として従四位下に叙せられ、八月四日には正四位下皇太后宮権亮となった。三月二〇日に高倉天皇の母である女御滋子が皇太后に立てられたことに伴うものであった。

藤原光能1

 野口実氏「流人の周辺—源頼朝挙兵再考」(『中世日本の諸相』上所収)そのものは未見であるが、そこでは関東へ下向した公家出身者(中原親能、大江広元等)を幕府に結びつけた人物として、藤原光能の存在が指摘されているようで、岩田慎平氏の論文や講演で繰り返し紹介されている。論文そのものは、国会図書館に複写を依頼しても最大半分までしかできないし、県内の大学・公立図書館も所蔵していないので、とりあえず、アマゾンで中古本(上・下とも)を注文した。三〇年ほど前の出版で、当時でも上下で2万円するが、最も安いところでは上下で3千円(税別)で入手できる。これまで購入した例でみても、読むのに支障があることはないと思われる。史料集なら個人蔵であった可能性もあるが、論文集の場合は在庫残りである可能性が大きい。元木泰雄氏『藤原忠実』のみ、元台湾大学の所蔵本であったが、これも図書館シールを剥いだ跡はあるが、新品同様のものであった。
 野口氏論文では光能についてどこまで記述されているかは数日中に届いた時点でのお楽しみであるが、とりあえず自分で調べてみた。問題はなぜ「光能」がという点である。ブログでは過去に文治二年三月に光能の後室比丘尼阿光(足立遠元娘)が丹後国栗村庄への武士による妨げ停止を求めた『吾妻鏡』の記事を紹介した。ポイントは栗村庄が崇德院領であったことである。崇德院の菩提を弔う御影堂等の所領であったと考えられるが、崇德院庁の庄園が一旦没収され、後にその祟りを恐れて「崇德院」の名が送られた時期に、御影堂に寄進されたものであろう。その領家が光能であったのは、光能が待賢門院流に属していたためであろう。岩田氏は光能が後白河院の近臣であったことを強調されるが、その出世は遅い。

牧(大岡)氏の補足

 『閑谷集』の内容を確認するため、加藤秀行氏『貴重な郷土資料『閑谷集』を読む』(二〇一六)を購入した。活字となっているものもあるようだが、ネットで公開されている『肥前松平文庫』本を眺めるとほとんどがひらがなで、予備知識なしに理解は不可能と思ったことと、この本と文庫のものを対照しながら、変体かなに対する勘を取り戻すためである。
 作者の名前は不明だが、伊豆国大岡庄を支配にかかわる家の関係者である可能性は高い。領家職を所持する平氏(忠盛・池禅尼とその子である家盛・頼盛)についても、家盛の死亡に関する記事が記されており、承知していた人物である。ただし、後の六波羅探題につながる幕府の京都代官であった牧四郎国親(建久三年と四年)と筆者の父(建久五年一一月二二日に死亡)との関係は不明である。同一人物に比定する説があることは理解はできる。
 建久五年に国親の後任の代官となった「三条左衛門尉有範」については、平賀朝雅殺害に関わった「五条判官有範」と同一人物である可能性がある。承久の乱の時点では「五条筑後守従五位下行平朝臣有範」とみえ、京方の罪により後藤基清、佐々木広綱などとともに斬られている。まだ精読はしていないが、朝雅の乱に関する記事はなさそうである。
 『吾妻鏡』をみると、平忠盛の聟である下総国千田庄領家判官代親政が平家方として千葉常胤らと戦い生け捕りとなり、相模国から渡海してきた頼朝の前に差し出されている。それを含めて「親」の字を付けている武士は敵・御方とも多い。大岡宗親に関する記事は『吾妻鏡』中に予想以上に多く、個々について確認したが、その子である時親との混同は考えにくい。『吾妻鏡』には時政失脚以降、大岡氏に関する記事はないが、「牧氏」については『鎌倉遺文』等で検索すると関係文書を確認でき、御家人としては存続していた。

 

2019年2月14日 (木)

信西入道と二人の父2

 父経成の場合も初任の備後守から次の常陸守補任(一一〇三)までやはり二〇年近くかかっており、高階氏一族内での地位は必ずしも高くなかった。その後、鳥羽天皇が死亡し、白河院政が本格化したことで登用され、経敏は武蔵守を二期八年務めた後には、能登守を六年、長門守を四年、連続して務めている(~一一三〇)。
 養父経敏のもとで、通憲は天治元年(一一二四)には璋子の中宮権少進に、院号宣下後には院庁判官代に起用され、次いで翌年には蔵人兼右近将監に補任された。その後、大治二年(一一二七)には従五位下に授爵したが蔵人の任は解かれた。養父高階経敏についても大治五年(一一三〇)正月=長門守去任以降の動向に関する史料はない。
 保安三年(一一二二)から長承三年(一一三四)までの間に高階一族の重仲の娘との間に知られているだけでも六人の男子を成していたが、その翌年には藤原兼永の娘朝子との間に成範が生まれている。朝子は大治二年に誕生した鳥羽院の第四皇子雅仁の乳母となっていた。保延四年(一一三八)から翌五年にかけては日向守に現任し、保延六年(一一四〇)には上総国二宮橘木社を鳥羽院の御願寺安楽寿院に寄進し、鳥羽院宣により立券が認められている。
 康治二年に正五位下に叙され、その翌年には本姓藤原に戻って少納言に補任されたのは実務官僚としての登用のためであったが、同年には出家し、信西と名乗った。通憲の父通憲の祖父季綱と源義朝の妻の祖父季兼は従姉妹であった。

信西入道と二人の父1

 保元・平治の乱の主役の一人信西入道は学者の家系である南家貞嗣流の実兼のとして生まれた。その名通憲は、祖母の父通宗に因むものであろう。通宗は小野宮流藤原経平の子で周防・若狭・能登守を歴任して応徳元年(一〇八四)に死亡している。その母は筑前守高階成順(その父明順が季綱母の祖父業遠と従兄弟)の娘であった。また通宗の姉妹睦子は勧修寺流藤原実季との間に待賢門院の父公実や鳥羽天皇の母苡子を産んでいる。また別の姉妹は藤原顕季との間に長実(美福門院の父)、家保(家成の父)並びに宗通の妻(伊通の母)を産んでいる。
 父実兼の同母姉悦子は夜の関白と呼ばれた藤原顕隆の妻で鳥羽天皇の乳母であった。両者の子で通憲の従兄弟となる一二才年長の顕頼は鳥羽院近臣で、従姉妹栄子は崇德天皇の乳母であった。実兼の同母兄尹通は白河院の近臣として受領を歴任した。これに対して嘉承元年(一一〇六)生の通憲は七才で父実兼が急死したため、高階経敏の養子となった。祖父季綱の母は高階業俊の娘であり、経敏は業俊の孫にあたる。
 高階氏一族は白河院のもとで各地の受領を歴任していた。経成の子である経敏は寛治四年から七年(一〇九〇~九三)にかけて相模守を務めたことが確認できるが、天永三年(一一一二)正月に武蔵守に補任されるまで二〇年間近くかかっている。
追記:当初、通憲の曾祖父を通定として説明していたが、通宗の誤りであるため、大幅に修正した。

2019年2月13日 (水)

院分国と知行国

 国守は朝廷から補任され記録が除目の中に残るが、知行国や治天の君の分国を除く院分国についてはその人物に賜ったとの情報が残るかどうかは偶然に作用される。知行国主は関係者を国守に朝廷に任命してもらうもので、国守の場合と異なる収入があるかはよくわからない。治天の君ないしはそれに準ずる人物の分国ならば、除目の記録や公卿補任にも「院分」と記されることが多いが、それ以外の女院の分国は知行国と変わらない気がする。五味文彦氏によれば、一年間のみ女院の分国とする形から、知行国主と同様に国司の任期にそって継続する女院の分国が登場するようになるのは後期白河院政からで、待賢門院分からではないか。ところが、待賢門院に関する研究はほとんどなされておらず、実態がある程度判明するのは美福門院分以降で、待賢門院の子上西門院や美福門院の子室町院が中心である。
 それぞれの国で実権を持つのは在庁官人等を率いて運営にあたる目代で、国守が交替しても継続する場合も多いが、場合によっては新国守が旧任国の目代を起用する場合もある。吉田経房は兄の死により伊豆守に補任されたが、国主は父光房で替わっておらず、目代もそのままであったと思われる。問題は父光房の死亡時であり、国守が交替することもしばしばみられる。それが交替しなかったのは国守が成人して国務を行える場合と父に代わる保護者がいる場合であろう。いずれの場合も目代は同一人物が継続して国務を行う。 
 吉田経房と北条時政の関係を記した後世の史料を採用した論者は、父の死により経房が伊豆国の国務をとったと解釈したのだろうが、如何せん父の死亡時に一三才の経房が国務をとる可能性はほぼゼロであり、時政が四才年下である経房の対応に感心することもありえないことである。安房守に遷任した時点でも一八才であり、やはり舅である平範家がサポートしたと考えられる。目代も伊豆国時代の人物が起用された可能性が大きい。次いで二三才で安房国知行国主となり、国守には藤原有経を起用した。その名前からして一族の関係者であろうが系譜上の位置づけは不明である。さらに二七才の時には子定経、三五才時には弟定長を国守として、知行国主であり続けた。
 吉田経房の父光房とその兄弟憲方の関係について、混乱した面があったが、尊卑分脈では光房の方が年上だとしているが、国司と知行国主を扱う論文では『識事補任要記』に基づき、憲方が兄で三才年長とされる。両者の任官暦をみても後者が正しいと思われるので、ここで確認しておく。

2019年2月12日 (火)

藤原公佐をめぐって5

 両者の異母兄で家成の嫡子と考えられる隆季についても、母方の祖父高階宗章は白河院の近臣で、永久五年一一月二六日に女御として入内した璋子の家司職が補任された際に、政所別当の一人として「従四位下若狭守高階宗章」がみえている。そして侍所別当としてみえる「従五位上右兵衛佐兼丹後守藤原忠隆」の娘が隆季の嫡子隆房の母である。忠隆の父基隆も待賢門院庁の別当で、女院御願寺円勝寺西御塔と法金剛院本堂の造進を行い、その功により大治五年一〇月二五日に従三位に叙せられ公卿となった。基隆の後任の播磨守が、すでにその孫娘との間に嫡子隆季を成していた家成であった。家成は同四年一二月二五日に加賀守から藤原清隆の後任として讃岐守に遷任したばかりであった。一般的には、家成が美福門院の従兄弟であることが強調されるが、崇德天皇との関係がより深かったのである。
 藤原成親の子で実国の養子となっていた公佐が、一条能保とともに頼朝に朝廷や公家の情報を提供していた背景は以上のとおりであった。北条時政の娘で三代将軍実朝の乳母となった若狭局と結婚して子をなしたのは、文治末~建久初年のことと思われる。また、成親は仁安三年(一一六八)一二月一三日から、一時的中断こそあれ治承元(一一七七)年六月一八日まで八年半の間尾張国知行国主であったが、その前任は平治の乱後の平治元年(一一五九)一二月二七日からの九年間は、池禅尼の子平頼盛が知行国主であった。この時期にも義朝の墓への配慮はなされていたと思われる。平康頼が平家家人とされていることからすると、康頼は頼盛の家人として尾張国目代となり、成親の時代も目代に継続して起用された可能性が高い。

藤原公佐をめぐって4

 なお、俊成の義兄顕頼について、角田文衞氏は早くから待賢門院に反感を抱いていたとされるが誤りである。その事は、女院が死亡する久安元年八月二二日の直前(八月一八日)に顕頼が崇德天皇の御願寺成勝寺に丹波国福貴御園を寄進していることでわかる。家成も保延三年三月一九日に藤原忠実の娘泰子が女御から皇后となった際には皇后宮言大夫に補任され、同五年五月一八日に得子が体仁親王(近衛)を生み、八月一七日に立太子されると春宮権大夫に補任されているが、その一方で、待賢門院没後の久安元年一二月二七日には成勝寺に山城国久世御園を寄進している。佐伯氏は体仁親王の春宮大夫源師頼が就任三ヶ月後の保延五年一二月四日に死亡した事をうけて翌六年三月二七日に待賢門院の同母兄徳大寺実能が春宮大夫に就任している事から、体仁誕生以前から、鳥羽院と美福門院との間に男子が誕生した場合には、崇德の養子とすることで、崇德院の外戚閑院流との間で合意・了解ができていたとしている。
 以上は、成親・隆頼兄弟が崇德天皇との深い関係のもとに出生しているという点を確認した。なお、待賢門院別当で源義朝と待賢門院・崇德の間をつないだことを述べた藤原清隆も保延五年八月一七日に春宮亮に補任されている。清隆主導で義朝が従五位下下野守に補任されたのはその一四年後の仁平三年三月二八日であった。
(補足)池禅尼の父宗兼の姉妹で、藤原家成の母で、崇德天皇の乳母であった女性は大治四年(一一二九)一月二十四日に四三才で死亡している。寛治元年(一〇八七)年の生まれである。

藤原公佐をめぐって3

 一方で佐伯氏は、美福門院系が皇位と所領を継承することが鳥羽院の構想であったとし、美福門院所生の近衛を崇德の養子とし、姝子内親王を待賢門院所生の統子内親王の養女(保元元年三月以前)として、成勝寺領などの崇德院領と待賢門院から統子が受け継いだ所領が美福門院流の皇子女のもとへ環流するよう予定されていたと述べた。これについては、御願寺領の伝領のあり方、さらには待賢門院領のほとんどを崇德が管理し、保元の乱以前に統子が継承していた所領は限られていた事からして疑問である。崇德の子重仁親王も健在であった。
 佐伯氏は重仁への親王宣下が誕生の年ではなくその翌年であることから、重仁がその誕生時(保延六年九月二日)に皇位継承候補として想定されていなかったとする下郡剛氏の見解も紹介しているが、親王宣下は近衛天皇の即位した永治元年一二月七日に先立つ一二月二日になされている。重仁誕生時の最大の問題は中宮聖子との関係であろう。聖子も一九才であり、崇德との間に皇子が誕生してもおかしくなかった。その点を配慮しつつ、崇德の譲位前に重仁の親王宣下をしたと思われる。
 成親と隆頼はともに藤原俊成の娘を妻とし、隆頼の娘は祖父俊成の養女となって源通親の子通具との間に具定を産んでいる。成親の子公佐は、父成親が鹿ヶ谷の陰謀により死亡したため、実国の養子になったことは前述のとおりである。通具の子で具定の兄弟である具実の母については不明だが、公佐の娘が具実の妻となり、嫡子基具(太政大臣)を産んでいる。
 俊成は父俊忠と藤原敦家の娘の間に生まれた。俊忠の娘は藤原伊通(元永元年正月に璋子が中宮となった際の中宮大夫で顕仁親王家の勅別当でもあった宗通の子、待賢門院庁別当)、藤原光房(為隆の嫡子で、弟憲光は顕仁親王家蔵人)、藤原顕頼(元永元年正月の中宮亮で、顕仁親王家政所別当顕隆の嫡子、待賢門院庁別当)、徳大寺公能(女院の同母兄実能の子)、藤原頼長(忠実の子)と結婚しており、幅広い人脈を構築している。俊成自身も当初は義兄である顕頼の猶子となり顕広と名乗って美作(院分)、加賀、遠江守を歴任した。一四才の大治二年の叙爵後一八年目の久安元年に従五位上に進むが、皇后宮(美福門院)御給であり、この前に皇后女房美福門院加賀を妻としたと考えられる。

藤原公佐をめぐって2

 公佐の父成親と頼朝の関係で想起されるのは、藤原隆頼(盛頼から改名)と平康頼が、頼朝から所領(肥前国晴気保地頭職と阿波国麻殖保保司職)を与えられていることである。この点を分析した服部英雄氏は、両者は尾張国知行国主藤原成親のもとで、隆頼(成親の同母弟)は国守、康頼は目代を務めていたことをあきらかにした。康頼については平家家人であったこともあったが、目代として同国野間庄内にあった頼朝の父義朝のため所領三〇町を寄進し、小堂を建立していた。その恩に応えるための康頼の麻殖保保司職補任であった。
 成親と隆頼は鳥羽院の寵臣藤原家成と白河院の近臣藤原経忠の娘隆子の間に生まれている。隆子の母実子は待賢門院璋子の異母姉であった。隆子が女院の子崇德の乳母となったのはそのためであった。兄弟の父家成も元永二年六月一九日に顕仁親王(崇德)家職員が補任された際には、蔵人に補任されている。佐伯智宏氏は白河院が曾孫崇德の側近の核として家成を配したが、白河院の死後、新たに治天の君となった鳥羽院が、家成を自らの寵臣としたことを明らかにしている。
 佐伯氏は一方では、鳥羽院が崇德を祖父白河の子として「叔父子」と呼んだとする『古事談』の記事について、康治二年六月一八日の鳥羽院第四皇子雅仁親王の子守仁親王(後の二条天皇)誕生後に関白藤原忠通によって流されたものであるとする美川圭氏の見解を紹介しつつ、近衛の死までは鳥羽と崇德の間には大きな対立はなかったとした。実態としても、近衛は崇德・中宮聖子夫妻の養子となり、近衛と普段同居していたのは実母美福門院ではなく、養母聖子であることも明らかにした。
 従来、院近臣で待賢門院の同母兄である徳大寺実能や藤原家成、藤原顕頼、藤原清隆らが美福門院派に乗り換えたことが指摘されているが、鳥羽と崇德の間の関係を踏まえれば、待賢門院・崇德と関係の深い人物が美福門院との間に関係を持つことは乗り換えでも裏切りでもなく、鳥羽院の近臣としては普通のことであった。白河院の死後、鳥羽院がその構想を修正したの同様、鳥羽院の死後、崇德院が院政を行う可能性は高かった。

 

藤原公佐をめぐって1

 公佐は後白河院の近臣藤原成親の子として生まれるが、父が鹿ヶ谷の陰謀で失脚、配流後に死亡したため、父の姉妹の夫である三条実国の養子となった。文治元年一二月の時点で、頼朝の代官北条時政が京都に派遣され、朝廷との交渉に当たっていたが、頼朝は京都の情報を縁戚関係にある左馬頭一条能保と侍従公佐を通じて得ていたとされる。能保は平家の都落後、平頼盛らとともに鎌倉にいたことがあり、その後、都に戻っていた。公佐が時政の娘阿波局と阿野全成の間に生まれた娘と結婚したのは、子実直が1209年生まれなので、全成が二代将軍頼家によって配流・殺害された(1203)後であろう。
 公佐は頼朝の推薦(文治元年一二月六日)を受けて翌二年正月に右馬権守に補任され、建久元年六月には後白河院の殿上人となったが、建久三年三月の後白河院死亡後、何らかの原因で除籍されて昇殿資格を失った。公佐は頼朝に対して科は無いとして、取りなしを依頼しているが、頼朝は問題がなければ処分されないとして断っている。その後、建久五年一二月二六日の鎌倉永福寺内新造薬師堂供養には、頼朝の供奉人と随兵に続いてみえる布施取九人(幕府祗候の公家か)の中に「左馬権頭公佐」がみえる。承久元年正月の三代将軍実朝暗殺後には全成の子で公佐の妻の兄弟である阿野時元が反北条氏の兵を挙げて鎮圧されている。
 承久の乱後の嘉禄元年(一二二五)一一月二一日の五節の際には初めて出仕した侍従の一人として公佐の子実直(一七才)がみえている。次いで嘉禄二年一〇月二六日の時点では「故右馬頭公佐朝臣」とみえ、公佐が死亡していることがわかる。公佐の生年は不明だが、父成親が鹿ヶ谷の陰謀で死亡していることから五〇才を越えていたことは確実である。安貞元年四月二五日には賀茂祭の近衛使として「右近衛権少将藤原実直」がみえるが、大納言三条実宣の養子となっていた。実宣は父公佐の養父実国の嫡孫で、実直の従兄弟であった。実国は父公教と母藤原憲方の娘の間に生まれ、その嫡子公時は公佐の実夫成親の姉妹(家成の娘)を母とする。そして公時と吉田経房の娘の間に生まれたのが実宣であり、持明院基宗の娘を妻としていた。実国の母方の祖父と吉田経房の祖父とは藤原為隆である。

2019年2月10日 (日)

池禅尼と牧の方4

 本ブログでは繰り返し「待賢門院流」の存在を指摘し、その影響が大きかったことを述べている。経房と妻の共通の祖父為隆は、待賢門院の従兄弟であった。平範家の父実親も待賢門院庁の判官代であった。頼朝(祖父為義の母は日野氏の出で、父義朝の母は清隆の従姉妹で、義朝と結婚した際には清隆の庇護下にあった可能性が大きい。義朝の叙爵・下野守補任も清隆の存在が背景にあった。宗兼の嫡子宗長の母は日野有信の娘で、崇德院庁の別当日野資憲の父実光の姉妹であった)と経房が立后された統子内親王の皇后宮と院号宣下後の上西門院庁で同僚となったのは偶然ではなく、元々の関係があったためである。頼朝と経房との関係の上に、時政と経房の関係が構築されたと考える。頼朝が経房領出雲国薗山庄の庄官への還補を求める前司師兼(頼朝の甥仁憲に祗候)の求めに応じて、経房への推薦状を与えているのも、両者の関係が深かったことを示している。
 歴史人口学の成果によると平安末期の関東の人口増は著しく、京都周辺と並ぶ中心であった。中世史研究者はこの点について言及しないが、関東と畿内の関係の緊密さの一つの背景である。その原因の一つに平均気温が上昇したため、西日本では飢饉が起きる可能性が上昇したのに対して、本来は気温がやや低い東日本、北日本では農業生産の条件が良くなった。奥州藤原氏繁栄の原因の一つでもあった。その後、気象状況の変化により京都周辺の人口増加率が関東を上回り、その結果、室町幕府は京都に置かれた。
 以上、野口氏の精力的研究から学ぶところが多かったが、その上で、疑問を提示し、一部において異なる見解を述べた。近刊の元木泰雄氏『源頼朝』に対しても同様の違和感(「待賢門院流」についてほとんど考慮されていない)をおぼえたが、これについては機会を改めて述べたい。   

池禅尼と牧の方3

 次に、野口氏が説かれる北条時政と吉田経房との関係についても述べる。森幸夫氏によって再評価された史料に基づき、時政と経房の関係は、経房が伊豆守であった仁平元年(一一五一)七月から保元三年(一一五八)一一月までの間にその発端があるとする。経房の在任期間は七年半に及ぶが、野口氏は経房が一三~一七才、時政は一七~二一才の時期=延任後に限定している。その史料そのものが未見でその根拠は不明であるが、想定が正しいとした場合、とりわけ経房の年齢に違和感を覚える。
 経房は夜の関白と呼ばれた勧修寺流顕隆の兄為隆の子光房を父とする。光房自身については待賢門院との関係はあまり確認できないが、同母兄で出雲守、周防守、右衛門権佐、近江守を歴任した憲方は待賢門院とその娘統子内親王と深いかかわりを持っている。後述の出雲国薗山庄は、出雲国が待賢門院分国であった時期に、為隆を領家として立券され、子光房を経て孫経房に伝領された可能性が高い。為隆の子で公卿になったものはいなかったが、孫経房は公卿にまで進んだ。
 久安四年(一一四八)年正月に経房の異母兄信方が伊豆守に補任されたが、父光房が知行国主であった可能性が高い。信方の死により経房が伊豆守となったが、知行国主であった父光房の死亡直後に延任がなされている。一三才でしかない経房のサポート役の可能性があるのは、経房の妻となる女性の父平範家(その母方の祖父は経房の祖父為隆である)であろうか。経房の嫡子で保元三年に生まれた定経もまた範家の嫡子親範の娘と結婚している。野口氏は知行国主であった父光房の死により経房が自ら国務を執ったと考えられたのかもしれないが、経房(一六才で叙爵し勘解由次官、一七才で皇后宮権大進を兼職する)が伊豆国に下向したとしても短期間のことであろう。その意味で、森氏が再評価された事例をそのまま採用することはできないと考える。

池禅尼と牧の方2

 先ずは池の禅尼の父宗兼について確認すると、生年は不明だが、永治元年一二月に出家したことが確認できる。その嫡子宗長も生年は不明だが、仁平三年に死亡しており(本朝世紀)、宗兼も出家後間もなく死亡した可能性が高い。問題は平忠盛の後室で頼盛の母である宗子(池禅尼)の生没年が不明なことである。典拠を確認できていないが、長治元年(一一〇四)生で、長寛二年(一一六四)との説は、その子家盛、頼盛並びに父宗兼・兄宗長の活動時期とは適合している。宗兼の妹宗子が産んだ鳥羽院の寵臣で、宗兼の子達と同世代である藤原家成は嘉承二年(一一〇七)生まれ、仁平四年(一一五四)没であり、宗兼の子宗親が頼朝挙兵時点で生きている可能性は限りなくゼロに近く、『吾妻鏡』中の大岡宗親である可能性はゼロである。それゆえに、野口氏は子の時親と混同したとした。ただし、北条氏中心の『吾妻鏡』においてその近親者を混同する可能性はかなり低いとすべきである。
 野口氏は、鎌倉初期の『閑谷集』の作者は健久三年に「六波羅探題」としてみえる牧四郎国親の子に比定できるという国文学者浅見和彦氏の論文を紹介した上で、国親を宗親の兄弟としているが、池禅尼の系図にその兄弟として国親はみえない。論文Ⅱの〈牧(大岡)氏とその係累〉系図にはさらに兄弟として「政親?」も記されている。牧の方の兄時親を含め、大岡牧の牧氏一族には「親」の通字が使われている。これに対して、池の禅尼の兄弟(宗長とともに宗賢もみえる)、父のみならず、祖父も隆宗で、こちらは「宗」を通字としており、牧氏とは明らかに違っている。池禅尼の兄弟が、その子池頼盛領の管理者として現地に土着する可能性も極めて低い。
 禅尼の兄弟宗長と宗賢の子が系図に記されないのは、宗長が待賢門院判官代からその子崇德院の院庁の役人となったため、その関係者が保元の乱で崇德方となって没落したためではないか。下野守源義朝の前任者「藤原宗国」については系譜上の位置づけができないが、「宗」が付いている。その前任者が藤原宗長であった。宗長は日野資憲が崇德院庁別当に専念するために、任期途中で下野守を辞した跡に和泉守から遷任した。その前任は石見守であったが、和泉・石見両国は待賢門院の分国であった。以上により、大岡宗親は池禅尼の兄弟宗親と別人であることは明らかである。付け加えると、後白河院の側近として頼朝とやりあった高階泰経の母もまた、宗兼の娘であった。泰経は宗親より一世代下であるが、建仁元年一一月に七二才で死亡している。

池禅尼と牧の方1

 この問題については、牧の方が池禅尼の兄弟(藤原宗兼の子)の娘であるとの説が杉橋隆夫氏により唱えられたが、中世史研究者の多くはそれを肯定的に捉えたのに対して、系図研究者宝賀寿男氏はそれが成り立つ余地がほぼないことを明快に述べている。宝賀氏は明確な論拠を示しているが、杉橋氏を初めとする中世史研究者は、牧の方の武家社会と公家社会における活動を理解するためには、それが百%成り立たない限りは支持するというものである。北条氏をはじめとする幕府御家人について新たな研究を次々と発表している野口実氏も杉橋説には大きな難点があることを認めながら、手直しを加えた上で成り立つとしている。この点を検討した論者の結論は、杉橋氏の作業は北条氏研究の活性化をもたらしたが、牧の方と時政の婚姻は挙兵後であるとして矛盾はなく(一々述べていないが、関係すると思われるすべての人物の生没年代を確認した上での結論である。牧の方の年齢は政子に近く、その子女の誕生時期は頼朝の挙兵後の婚姻で問題はない)、その父宗親が藤原宗兼の子宗親である可能性はゼロとしてよいというものである。野口氏の作業が有意義であるとの前提であるが、以下で論理的に述べたい。
 以下で引用する野口の論文を番号で略記する。
 論文Ⅰ 「京武者」の東国進出とその本拠地について 大井・品川氏と北条氏を  
中心に(京女大宗・文研紀要一九、二〇〇六)
 論文Ⅱ 伊豆北条氏の周辺 時政を評価するための覚書(同紀要二〇、二〇〇七) 
 論文Ⅲ 北条時政の上洛(同紀要二五、二〇一二)
 野口氏が杉橋説を評価しながらも、問題があるとしたのは、杉橋氏が時政と牧の方が結婚したと想定した時期(Ⅰ)と『吾妻鏡』にみえる大岡宗親記事(Ⅱ)であった。野口氏は、一時は時政の嫡子とされた政範が杉橋説だと牧の方四六才の時の子となるのは無理だとしながら、婚姻の時期が頼朝挙兵以前であることは間違いないと思うとした。ただしその根拠は示していない。また、『吾妻鏡』にみえる宗親は牧の方の兄時親と混同したものとし、宗親は頼朝挙兵以前に死亡していた可能性が高いとした。

2019年2月 8日 (金)

義朝の叙爵・任官の背景3

 保元の乱は待賢門院関係者に亀裂を生んだが、保元四年二月に統子内親王が院号宣下により上西門院となった際には憲方は別当の一人となり、殿上人の中には修理大夫源資賢(有賢の嫡子)と故通基(久安四年一〇月死亡)の子能登守基家がみえている。基家は久安四年正月に兄通重が丹波守に遷任した跡の能登守に補任されている。能登国は女院の分国であった。通重は待賢門院の同母兄徳大寺実能の孫娘を妻としたが、久安五年八月に早世し、その遺児能保は三才でしかなかったため、基家が一族の中心となり、公卿に進んで持明院家の祖となった。能保は昇進は遅れがちであったが、その間に義朝の遺児で頼朝の同母姉妹(後の坊門姫)を妻とした。
 義朝が関東で最初の拠点としたのは上総国であり、康治二年には上総氏と結んで下総国相馬御厨に介入して、庄官千葉氏を屈服させている。当時の上総守は院近臣藤原敦兼の子季兼であった。尾張国目代の季兼とは同姓同名であるが別人である。敦兼の母は堀河天皇の乳母兼子で、敦兼の従姉妹にあたる女性であった。大治三年一二月日待賢門院牒には別当の一人として「但馬守藤原朝臣」と署名しているのが敦兼である。翌四年一一月三日鳥羽院庁牒の署判者としてもみえる。保延元年五月日待賢門院庁下文、同二年二月一一日鳥羽院庁牒の署判者であり、両院の近臣であった。
 以上のように、仁平三年三月二八日の義朝と範忠の叙爵には白河院の姉と娘の給分が充てられた形となっており、これを可能としたのは院近臣藤原清隆の関与である。そして鳥羽院サイドよりも、待賢門院の嫡子崇德院サイドの働きかけが大きかった。これと義朝が保元の乱で後白河天皇方となったことは必ずしも矛盾しない。待賢門院流の多数の人々は現実的対応として女院の第四皇子雅仁側を選択せざるを得なかった。保元の乱は藤原忠通が弟頼長を排除する機会を狙っていたことが原因であり、近衛天皇と鳥羽院が期間をさほど置かずに相次いで死亡するようなことがなければ勃発しなかった可能性が高い。例えば、鳥羽・近衛の順に相次いで死亡するケースでは、崇德による院政が実現し、近衛の死後、鳥羽が五年程度生きていれば、頼長は失脚しており、乱には至らなかったであろう。

義朝の叙爵・任官の背景2

 範忠の叙爵については、これまた二〇年以上前に死亡した白河院の三歳年上の同母姉聡子内親王の未給分による合爵であった。まさに、鳥羽院ではなく白河院の遺産に基づくものであり、白河・鳥羽・待賢門院・美福門院の近臣であった清隆主導によるものであり、義朝の関係で範忠も叙爵したものである。
 義朝が関東へ下り活動の拠点としたのは上総国と相模国であった。二度にわたり義朝が伊勢神宮領大庭御厨に介入した際の相模守は藤原頼憲で、その父憲方が知行国主であった。この点については五味文彦氏「大庭御厨と「義朝濫行」の背景」と元木泰雄氏「保元の乱における河内」が指摘しているが、それにはとどまらない。憲方の前任の知行国主は平実親で、長承三年閏一二月以降、子の範家と親家が九年間にわたって相模守を務めている。さらにその前任者は藤原隆盛で、知行国主は父清隆であった。範家と清隆の関係は前述の通りであるが、範家の母は勧修寺流藤原為隆の娘であり、憲方の姉妹である。範家の娘は吉田経房の妻となるが、経房の父で、憲方の同母兄光房が死亡した時点で経房は一三才で、その三年前に異母兄(母は源有憲の娘)で伊豆守であった信方が死亡したことにより伊豆守に補任されていた。知行国主は父光房であったが、死亡した事により、妻の父範家が後見した可能性が大きい。範家は清隆の娘を妻とし、経房は範家の娘を妻とした。いずれも待賢門院流に属する人々である。
 範家の経歴をみると、大治五年一一月二九日に崇德天皇の蔵人に補任されているが、白河院蔵人と待賢門院判官代を経てのものであった。その後、相模守在任中の保延五年八月には鳥羽院と美福門院の間に生まれた体仁親王の春宮権大進を兼任している。父実親は右大弁時範の子であるが、天治元年一一月二七日には中宮璋子が院号宣下を受けたことにともない、中宮権大進から女院判官代に転じている。
 憲方の父為隆は為房の子であるが、為房の妹が待賢門院の母光子である。憲方は周防守在任中には保延元年に供養が行われた女院御願寺法金剛院の東新造御所の造進を行い、その功により正五位下に叙されている。その後、皇后得子の皇后宮大進を務める一方で、康治二年七月には統子内親王(前斎院、上西門院)が新造三条室町殿に渡御する際には、大蔵卿藤原通基(待賢門院別当)、越後守源資賢(白河院の近臣有賢の子、鳥羽院庁別当)とともに、年預として右衛門権佐憲方(鳥羽院庁別当)が中心的役割を果たしている。

義朝の叙爵・任官の背景1

 頼朝の父義朝については、頼朝の母が熱田大宮司家の出身であること、母の姉妹には待賢門院とその娘上西門院の女房がいたことが早くから注目されてきた。一方で、義朝の母方の外祖父忠清が白河院の近臣であったことも指摘されている。この問題について再検討する。
 熱田大宮司家が過大評価されていることを指摘したのは、上横手雅敬氏「院政期の源氏」(『御家人制の研究』)であった。藤原南家の季兼が参河国に住み、康和三年(一一〇一)一〇月七日に尾張国目代となったとする(尊卑分脈)。時の尾張守は藤原長実で、頼朝の舅季範が生まれた一一年後で、季兼は五八才である。異母兄弟の季綱は長門・越後・備前守を歴任し、その子尹通は院近臣、娘悦子は鳥羽院の乳母となっているが、季兼自身の経歴はぱっとしない。
 季兼は大宮司尾張員職の娘を妻とし、子季範が大宮司職を譲られた。分脈には季範を従四位下とするが、任官の有無は不明であり、信じがたい。その兄弟範信にも従四位下と記されているが、その中央での活動は確認できない。季範の嫡子で白河院北面源行遠(『宇治拾遺物語』にみえる)の娘を母とする範忠が義朝と同日で叙爵し、式部丞に任官していることから、義朝の叙爵・任官は妻の実家熱田大宮司家の勢力を背景とする見解があるがどうであろうか。範忠の娘が義朝の従兄弟で四才年下足利義康の妻となっていることを踏まえると、範忠は義朝より一〇才以上年上であったと思われる。その出世は遅く、とても義朝の後押しをできるようなものではない。範忠の姉妹に待賢門院女房大進局と上西門院千秋尼がいることも、季範の従兄弟尹通や悦子を通じたものであろうか。
 義朝が叙爵し下野守に補任された仁平三年三月二八日の除目は急遽行われた。『兵範記』は結果のみ記すが、『本朝世紀』によると、会議は他の参議が欠席し、藤原清隆のみによって行われた。文書を作成した左少弁平範家は清隆の娘を妻としていた。義朝の叙爵の根拠は二〇年以上前に死亡していた白河院の娘善子内親王の未給分による合爵であった。善子内親王が清隆の亡父隆時亭を御所としたことはすでに述べた。義朝の母は清隆の叔父忠清の娘であったが、義朝の子頼朝が誕生した時点では、忠清は出家しており、清隆の影響下にあったことも前に述べた。

 

2019年2月 3日 (日)

第三者委員会3

 ホンダは軽自動車からの撤退を以前検討したが、その間に取り組みが不十分となって魅力的な商品開発で遅れをとり。その反省からNシリーズを開発し、一定以上の成果を上げているが、いま再び撤退が議題となっているという。日本市場専用車で、ホンダ全体の中で軽自動車の占める割合は8%程度で、新製品開発に投入する人的資源からみて、撤退して普通車に専念する選択もあるとのことだ。とりあえず、Nワゴンはまもなくモデルチェンジするが、それ以降は次期N-BOXを含めて未定だという。
 マツダにしてもスカイアクティブ全体のレベルアップには相当の人的資源が必要だが、資本とともに不足しているとのこと。確かにエンジンとシャーシに比べてATは6段ATで留まっている。世界的にはメーカーにより多段ATが次々に開発されているのにもかかわらずである。ヨーロッパではCVTは人気薄で設定されないが、日本ではユーザーがそれに不満を持っていないため多数派である。
 ホンダのインサイトは米市場ではトヨタプリウスよりやや安い価格で販売されているが、日本での価格は円ドルの交換レ-トからして考えられないほど高価だという。CR-Vやシビックも同様であり、車としては悪くないが売れないことは確実だと言われている。トヨタもプリウスは良いが、レクサスの名が付く車は米市場より不当な程に高価である。TNGと命名された新プラットフォームも最大の目的はコスト削減であるために魅力薄であるが、これまでのものがひどすぎたので良くなったとの誤解を生む可能性はあるとのこと。営業からコスト削減を求められた結果、ダンパーやタイヤをケチると、それまでの努力が無になる例がプリウスであった。とはいえ、シャーシ本体にかけるコストがドイツ車とは全然違うのが根本の問題である。
 最後に明石市長の問題で、地元の神戸新聞が、問題となった箇所以外の発言を報道したのはよいが、これまで多々パワハラがあったがために、録音をしたはずなのに、言われた方が問題だと思わなかったとの発言が事実であるはずはない。すべてを洗い出す必要がある。福祉政策が良いならば継承すればよいのである。ただし、長期的にみて良いがどうかは検討が必要である。いずれにせよ、相手が市長であっても担当者はみずからの取り組みについて主張し、意見を戦わせないといけないが、一方的に市長がしゃべっているのが現実である。返礼品で納税者を集めるのはアウトだが、明石市の福祉政策は財政など全体からみてどうであったろうか。一定の方針で、これまで当たり前であったが、意味不明であった経費を削って、福祉に回したのならよいが、それなしに福祉政策で人口が増えれば、経費増は回収できるといったものでは困る。周辺地域がまねをして共倒れをするような政策ではなく、本当の意味でのすぐれた配分を実現しなければならない。そういう観点での続報を、第三者としての神戸新聞社に期待したい。

第三者委員会2

 イラン戦では主審が反則を取ったのに対して、ビデオジャッジからきちんと状況を確認するよう助言があった。反則をとらない選択もあったが、主審は自己の判断を優先した。カタール戦では主審がハンドに気づかなかったので、きちんと確認するように助言があり、それを確認した主審が反則とした。日本の解説者やファンでカタール戦の判定に異論を述べた人で、イラン戦のPKに言及する人ほとんどいない。NHKと民放で交互に観ていたが、民放の解説者は特にひどかった。両者を比べれば、反則の度合いはカタール戦が大きかった。もっと第三者的立場で視聴者の目を肥やす方向に導く解説者以外は追放すべきである。サッカーは全スポーツの中で最も「試合に勝って勝負に負ける」事態が起こりやすい。点を取るのが難しいからである。ラグビーは原則として得点にからむ場合のみビデオ判定があるが、反則そのものについてはビデオレフリーではなく、副審が指摘する。主審が判断が困難な場合は得点に関係する以外でもビデオで確認する。サッカーでは、副審の目の前でのプレーを除けば、ビデオレフリーでなければ指摘は難しい。ビデオを前提とするなら、PKの基準の再検討が必要である。
 欧米では企業内に経営陣をチェックする第三者機関がかなり前からあった。アップルの創始者の一人ジョブズも、第三者機関によりいったんは解任され、別会社を立ち上げて活動していた。そこで大成功をおさめたとはいえなかったが、アップル本体がウィンドウズ時代の到来に適応できずに倒産寸前となったことで、ジョブズが呼び戻された。テキストベースのMS・DOSに対して独創的であったマックOSをまねたのがウィンドウズであった。
 日本は政界と経済界のいずれでも名ばかりの第三者委員会しかない。日大アメフト問題については忘れ去られているが、学校現場のいじめに関する第三者委員会にも問題が多い。結局は第三者委員会が弱い立場の人を保護する憲法の理念に合致するものであることを、主権者が十分に理解してないのだろうが、理解できる研修・啓発の場が設けられなければならない。労働組合も日本では真冬の時代であるが、憲法に基づき結成しなければならない存在である。組合の専従問題も情報を公開した上で、どうあるべきかを考えるべきものである。専従は一部の恵まれた労働者のためにあるのではなく、会社のすべての雇用された人々のために必要な存在である。会社の組織内に代替機関があればよいとの意見もあろうが、労使が会社の経営をめぐり意見を戦わせなければ企業の発展はない。倒産寸前になったら外部から優秀な経営者を招けば良いものではない。第三者委員会がその役割を果たしていれば、ゴーン容疑者の疑惑につながる行為は不可能である。ルノーでは日産のようなしたいほうだいは不可能であろう。

第三者委員会1

 最近の事件から浮かび上がる言葉が「第三者」である。漁夫の利を得る第三者もあれば、チェック機能を果たす第三者もある。
 サッカーアジアカップが終了したが、現在の日本のサッカー解説者は一掃して新たな本物の解説者を発掘すべきである。他のスポーツでもあるが、特にサッカー解説者のレベルは最低である。本来の解説者はテレビ観戦者にプロの立場から助言し、観戦者の目を啓く事ができなければならない。
 昔の野球解説者もひどかった。ほとんどが巨人サイドからのコメントをしているのみであった。最近は巨人ブランドの凋落もあって、以前ほどではなくなっている。準決勝のイラン戦は、一点目もそうだが、二点目が決定的であった。一点目は南野選手が転ばなければ無かった得点である。イラン選手四人がペナルティーエリア外だとして主審に詰め寄ったとの根拠なき解説がなされているが、それは反則を前提としている。イラン側の反則でなかったのは主審の判断とともに、南野がすぐに起き上がってプレーを続行したことで明白である。イラン側が主張するとすれば、わざと転んだので南野の反則(シュミレーション)だというものしかない。サッカーの興味を削ぐ最大の要因が誰でもやっているシュミレーションだ。とはいえ、試合はテレビの生中継を観戦していたが、仕事をしながらであったので、熱心な観戦者ではなかったとの負い目はある。
 次に二点目であるが、カタール戦以上にPKとしてはならないものであった。イラン選手は転んだため手をついたところに日本選手の蹴ったボールが当たったものであった。カタール戦ではジャンプした際に、ハンドにならないよう注意することは可能であり、現行のルールではPKとなってもやむえないものであった。あくまでも現行のルールを前提とする限りである。現在のようにビデオ判定が可能ならば、ペナルティーエリア内の反則、即PKではなく、エリア外からのFKもあるのではないか。

伯耆守平忠盛2

 小槻盛仲については、永久四年正月二三日の時点では「修理右宮城判官正五位下行左大史兼博士」、永久五年一〇月一三日には「内匠助〔頭〕兼左大史算博士越後介」とみえる。そして永久四年七月一二日の太政官符(朝野群裁、大日史三-一七)と太政官牒(官牒〈天仁 天永 永久〉、大日史三-一八)が残されている。前者には「修理右宮城判官正五位下行左大史兼算博士播磨守」とあり、後者には「修理右宮城判官正五位下行左大史兼算博士越後介」とある。前者は「介」と「守」が違い、後者は「播磨」と「越後」が違っている。なにより同じ日でありながら前者は「播磨守」、後者は「越後介」と異なっている。はっきりしているのは、永久四年七月二四日以前に盛仲は播磨介か越後介に補任されたことである。永久三年三月二九日から保安二年六月二六日にかけての播磨守は院近臣藤原基隆であるので、「播磨守」の可能性は排除できる。
 盛仲は嘉承二年正月から天永三年までは土佐権介を兼ねていた。それから五年が経過したとして永久四年正月二九日には、再び国司を兼任することが検討されている。短期間の播磨介を経て越後介に遷任した可能性はあるが、播磨関係史料が前記の史料以外見られないのに対して、「越後介」であったことは元永元年六月まで複数の史料で確認できるので、「播磨介」も誤りとみてよかろう。以上により、盛仲は永久四年正月以降に越後介を兼任していたことになり、為隆と盛仲の検討では永久四年か五年かを確定できない。
 残るは家光と忠盛の在任期間であるが、家光の任期を二期八年とすると、永久四年正月に交替があったはずである。一方、忠盛は保安元年一一月二五日に越前守藤原顕盛と相博する形で遷任しており、永久四年三月二〇日補任なら四年八ヶ月、同五年なら三年八ヶ月となる。越前守は嘉承二年一二月二一日に重任した藤原仲実が四年後の天永三年一二月一四日にも現任しているが、翌四年三月二二日には「越前前司」(長秋記)となっており、正月に顕盛が補任された可能性が大きい。そして顕盛の任期八年と忠盛に任期四年が近づいてきた保安元年一一月二五日に相博したのではないか。
 以上、回りくどい事を述べたが、忠盛の伯耆守補任を五味氏は永久四年三月二〇日とされたが、永久五年三月二〇日の可能性がより高いのではないか。その場合、家光が体調を崩して二期八年以前に辞任し、短期間別の人物が伯耆守に補任されたことになる。あー疲れたというのが実感である。 

伯耆守平忠盛1

 平忠盛は院近臣として西国受領を歴任しつつ、政治的・経済的・軍事的基盤を築いたとされるが、大夫尉(従五位下の検非違使)から初の受領である伯耆守に補任された時期については、最新の鳥取県史の国司一覧表でも永久五年(一一一七)一一月二六日が現任の初見とされている。この日に鳥羽天皇の女御として入内した璋子の家司が補任されたが、その中に「従五位下伯耆守兼右馬権頭平忠盛」がみえている。一三才で左衛門少尉に補任されてから九年後であった。
 「朝野群載」には従五位下平朝臣忠盛が去三月二〇日に補任された事を伝える太政官符が掲載されているが、年月日は不明であり、そこに名前がみえる「造東大寺長官正四位下行左中弁藤原朝臣(為隆)」と修理亮〔右〕宮城判官正五位下左大史纂博士播磨介小槻宿祢(盛仲)」が時期比定の材料となる。ちなみに、忠盛以前の伯耆守として確認できるのは白河院が初めて主導した嘉承三年正月二四日に補任された藤原家光であるが、永久二年七月二四日に現任していたことと、元永二年には死亡していたことしか確認できない。家光から忠盛に交代したとすると、その時期は永久三年から永久五年の間となる。
 『鳥取県史』や『平安遺文』では太政官符を年未詳としているが、五味文彦氏「大庭御厨と「義朝濫行」の背景」(『院政期社会の研究』)では永久四年のものであると明記されている。以下でその根拠について検討する。
 為隆は為房の長子であるが、公卿補任には元永二年正月一八日に遠江守と造東大寺長官に補任されたとあり、さきほどの比定と矛盾する。遠江守補任は元永元年正月一八日であり、造東大寺長官の初見史料は永久二年五月二八日(東大寺文書)である。これなら矛盾しない。為隆が右中弁から左中弁に転じるのは永久三年八月一三日であり、これにより永久三年の可能性は消滅した。残るは四年三月二〇日か五年かである。

藤原忠清について2

 隆時の嫡子清隆は翌嘉承三年一月二四日の除目で叙爵(従五位下)し、忠清入道の子が蔵人に補任された直後の一月三〇日には二六才で紀伊守(白河院分国)に補任されている。次いで元永元年(一一一八)正月に女御璋子が中宮に立后された際には清隆は中宮権大進に補任されている。この時点では忠清の子女も従兄弟である清隆(三六才)の保護下にあったのではないか。忠清の母は高階為行の娘である。その状況下で忠清の娘が源為義の室となり、義朝が生まれたのではないか。翌元永二年一一月一一日には清隆の同母弟中宮(璋子)少進範隆が蔵人に補任されている。長承二年八月二七日には女院判官代兼甲斐守であった範隆が三七才で死亡している(中右記)。
 義朝は仁平三年(一一五三)三月二八日に従五位下に叙されるとともに下野守に補任されている。叙爵は白河院の娘(第二皇女で二二年前の大治六年に死亡)故善子内親王合爵によるものであった。前述の嘉承二年一二月に故隆時亭を斎院の任を終えて帰京した善子内親王に御所として提供した行為に基づくものではないか。すなわち、義朝の任官はその室の実家である熱田大宮司家との関係(角田文衞氏、上横手雅敬氏)ではなく、母の実家忠清家の本家である隆時-清隆家との関係で実現したものである。五味文彦氏は義朝の母である忠清女の弟行俊が待賢門院蔵人であったことから、母もまた待賢門院女房であった可能性が高いとするが、その点は不明である(必要条件ではない)。
 義朝の父為義の母は日野有綱の娘で、その従姉妹(従兄弟)には待賢門院別当平忠盛の後室となった池禅尼(宗子)と待賢門院庁判官代宗長の母や、待賢門院女房(後に崇德院女房)阿波の父で自らも待賢門院庁の判官代から別当に進んだ日野資光がいた。資光の室には待賢門院女房関屋もいた。阿波の夫資憲は鳥羽院庁別当であったが、崇德が異母弟近衛に譲位すると、下野守を辞職(後任は宗長)崇德院庁の別当となった。
 以上のように白河院の寵愛を受け鳥羽天皇の中宮となった璋子(待賢門院)を核として広範囲な人々が結びつき「待賢門院流」が形成され、為義-義朝父子もその一員であった。「待賢門院流」の嫡男であった崇德院は保元の乱により失脚したが、女院の子後白河院と統子内親王(上西門院)は生き残り、所領も維持された。その意味で、義朝の子頼朝が保元三年二月に統子が立后された際に皇太后宮権少進に補任され、翌年二月に院号宣下で上西門院となるとその蔵人となり、六月には後白河院の子二条天皇の内蔵人に補任されたことには矛盾はない。

 

藤原忠清について1

 一一世紀末から一二世紀初めに七年間出雲守を務めた藤原忠清については大日方克己氏が「平安後期の出雲国司」の中で述べている。藤原北家右衛門佐清綱の子で、父が摂関家の識事であったのに対して、出雲守から遷任した淡路守の時代に白河院の使として藤原忠実にもとに派遣されるなど、白河院との関係がみられるとしている。忠清の母方の祖父高階為行は後冷泉天皇の御落胤であったが、高階為家の養子となっていた。前任の出雲守高階重仲も摂関家家司であったが、忠清以降は院との関係が深い人物が出雲守となっている。
 ここで忠清について述べるのは、彼の娘が源為義との間に長男義朝を産んでいることと、忠清の異母兄で正四位下白河院別当である隆時の嫡子が白河・鳥羽院の近臣で待賢門院庁別当清隆であるからである。清隆は子光隆を出雲守とし、知行国主として久安の杵築大社造営を行った「待賢門院流」の重要人物(出雲守と伯耆守を務めた平基親の母方の祖父でもある)であるが、大日方氏はこの点については全く言及されていない。
 隆時は清隆と同様各国(因幡→但馬→近江→因幡)の受領を歴任する一方で、白河院判官代から四位別当に進んでおり、院近臣であった。嘉承二年(一一〇七)一二月三〇日には伊勢から帰京した前斎宮善子内親王が「故隆時」(忠清兄)の中御門富小路第に入り、ここが前斎院御所中御門亭となった。これ以前に隆時が死亡していたことがわかる。
 忠清自身は淡路守であった長治元年七月九日に春宮(鳥羽天皇)権少進を兼務しており、嘉承二年一〇月二二日には刑部権少輔に補任されている。永久四年一月二一日に忠清の子が蔵人に補任された際に「院蔵人一臈忠清入道男」とあり、この時点では出家していたことがわかるが、その活動はこれ以降確認できない。忠清の同母兄弟清仁は保延二年一〇月一五日には待賢門院の御願寺法金剛院の上座法橋となっており、隆重の娘(姪)は待賢門院女房右衛門権佐で、その子忠重はこれまた待賢門院庁別当であった平忠盛の養子となっている。

 

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