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2019年2月12日 (火)

藤原公佐をめぐって5

 両者の異母兄で家成の嫡子と考えられる隆季についても、母方の祖父高階宗章は白河院の近臣で、永久五年一一月二六日に女御として入内した璋子の家司職が補任された際に、政所別当の一人として「従四位下若狭守高階宗章」がみえている。そして侍所別当としてみえる「従五位上右兵衛佐兼丹後守藤原忠隆」の娘が隆季の嫡子隆房の母である。忠隆の父基隆も待賢門院庁の別当で、女院御願寺円勝寺西御塔と法金剛院本堂の造進を行い、その功により大治五年一〇月二五日に従三位に叙せられ公卿となった。基隆の後任の播磨守が、すでにその孫娘との間に嫡子隆季を成していた家成であった。家成は同四年一二月二五日に加賀守から藤原清隆の後任として讃岐守に遷任したばかりであった。一般的には、家成が美福門院の従兄弟であることが強調されるが、崇德天皇との関係がより深かったのである。
 藤原成親の子で実国の養子となっていた公佐が、一条能保とともに頼朝に朝廷や公家の情報を提供していた背景は以上のとおりであった。北条時政の娘で三代将軍実朝の乳母となった若狭局と結婚して子をなしたのは、文治末~建久初年のことと思われる。また、成親は仁安三年(一一六八)一二月一三日から、一時的中断こそあれ治承元(一一七七)年六月一八日まで八年半の間尾張国知行国主であったが、その前任は平治の乱後の平治元年(一一五九)一二月二七日からの九年間は、池禅尼の子平頼盛が知行国主であった。この時期にも義朝の墓への配慮はなされていたと思われる。平康頼が平家家人とされていることからすると、康頼は頼盛の家人として尾張国目代となり、成親の時代も目代に継続して起用された可能性が高い。

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