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2019年2月10日 (日)

池禅尼と牧の方4

 本ブログでは繰り返し「待賢門院流」の存在を指摘し、その影響が大きかったことを述べている。経房と妻の共通の祖父為隆は、待賢門院の従兄弟であった。平範家の父実親も待賢門院庁の判官代であった。頼朝(祖父為義の母は日野氏の出で、父義朝の母は清隆の従姉妹で、義朝と結婚した際には清隆の庇護下にあった可能性が大きい。義朝の叙爵・下野守補任も清隆の存在が背景にあった。宗兼の嫡子宗長の母は日野有信の娘で、崇德院庁の別当日野資憲の父実光の姉妹であった)と経房が立后された統子内親王の皇后宮と院号宣下後の上西門院庁で同僚となったのは偶然ではなく、元々の関係があったためである。頼朝と経房との関係の上に、時政と経房の関係が構築されたと考える。頼朝が経房領出雲国薗山庄の庄官への還補を求める前司師兼(頼朝の甥仁憲に祗候)の求めに応じて、経房への推薦状を与えているのも、両者の関係が深かったことを示している。
 歴史人口学の成果によると平安末期の関東の人口増は著しく、京都周辺と並ぶ中心であった。中世史研究者はこの点について言及しないが、関東と畿内の関係の緊密さの一つの背景である。その原因の一つに平均気温が上昇したため、西日本では飢饉が起きる可能性が上昇したのに対して、本来は気温がやや低い東日本、北日本では農業生産の条件が良くなった。奥州藤原氏繁栄の原因の一つでもあった。その後、気象状況の変化により京都周辺の人口増加率が関東を上回り、その結果、室町幕府は京都に置かれた。
 以上、野口氏の精力的研究から学ぶところが多かったが、その上で、疑問を提示し、一部において異なる見解を述べた。近刊の元木泰雄氏『源頼朝』に対しても同様の違和感(「待賢門院流」についてほとんど考慮されていない)をおぼえたが、これについては機会を改めて述べたい。   

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