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2019年2月25日 (月)

源頼政をめぐって3

 以仁王は後白河の第三皇子で、その母成子は六人の子を産んでいる。第一皇子であった二条天皇の母(藤原経実の娘)は出産直後に死亡しており、天皇即位が決まる以前の後白河の唯一の妻とでもいうべき存在である。成子は待賢門院の異母弟季成の娘で、その長男というべき存在が以仁王で、二条天皇の八才下であったが、諸般の事情から皇位継承の可能性は低くなり、美福門院の娘八条院の猶子となっていた。
 以仁王は天台座主最雲法親王の弟子となり出家したが、最雲の死により一五才となった永万元年(一一六五)に還俗した。最初の妻として確認できるのは藤原光能の父忠成の娘で、その間に天台座主となる真性が生まれている。忠成の娘は徳大寺実定の従姉妹にあたり、光能と同様待賢門院流に属していた。以仁王と忠成娘との結びつきは、光能が後白河の近臣となる以前のことであった。その後、以仁王は八条院の寵臣三位局(高階盛章の娘)との間に三条宮姫君をなしている。永井氏によると嘉応元年(一一六九)の生まれであり、この時点までに以仁王と八条院の間の関係が生まれたとする。三位局の父高階盛章は鳥羽院近臣であるが、父宗章は待賢門院別当でその姉妹には待賢門院女房遠江内侍がおり、盛章の姉妹にも待賢門院女房加賀がいた。
 待賢門院流は保元の乱で分断されたが、その子統子内親王と一才年下の後白河が生き残ったことで存続した。ただし後白河の位置は微妙であり、待賢門院流の人々の新たな結節点となったのは、待賢門院領の大半を相続した上西門院(統子)であった。ここでは詳細な検討はしないが、平治の乱の首謀者の大半は待賢門院と深い関係のあった人物である。藤原信頼と源義朝はいうまでもなく、二条天皇派の人々もそうである。彼らが新政権の核としようとしたのは、藤原経実と待賢門院の姉妹との間に生まれた女性を母とする二条天皇であり、その父後白河ではなかったと思われる。

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