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2019年2月10日 (日)

池禅尼と牧の方3

 次に、野口氏が説かれる北条時政と吉田経房との関係についても述べる。森幸夫氏によって再評価された史料に基づき、時政と経房の関係は、経房が伊豆守であった仁平元年(一一五一)七月から保元三年(一一五八)一一月までの間にその発端があるとする。経房の在任期間は七年半に及ぶが、野口氏は経房が一三~一七才、時政は一七~二一才の時期=延任後に限定している。その史料そのものが未見でその根拠は不明であるが、想定が正しいとした場合、とりわけ経房の年齢に違和感を覚える。
 経房は夜の関白と呼ばれた勧修寺流顕隆の兄為隆の子光房を父とする。光房自身については待賢門院との関係はあまり確認できないが、同母兄で出雲守、周防守、右衛門権佐、近江守を歴任した憲方は待賢門院とその娘統子内親王と深いかかわりを持っている。後述の出雲国薗山庄は、出雲国が待賢門院分国であった時期に、為隆を領家として立券され、子光房を経て孫経房に伝領された可能性が高い。為隆の子で公卿になったものはいなかったが、孫経房は公卿にまで進んだ。
 久安四年(一一四八)年正月に経房の異母兄信方が伊豆守に補任されたが、父光房が知行国主であった可能性が高い。信方の死により経房が伊豆守となったが、知行国主であった父光房の死亡直後に延任がなされている。一三才でしかない経房のサポート役の可能性があるのは、経房の妻となる女性の父平範家(その母方の祖父は経房の祖父為隆である)であろうか。経房の嫡子で保元三年に生まれた定経もまた範家の嫡子親範の娘と結婚している。野口氏は知行国主であった父光房の死により経房が自ら国務を執ったと考えられたのかもしれないが、経房(一六才で叙爵し勘解由次官、一七才で皇后宮権大進を兼職する)が伊豆国に下向したとしても短期間のことであろう。その意味で、森氏が再評価された事例をそのまま採用することはできないと考える。

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