koewokiku(HPへ)

« 義朝の叙爵・任官の背景2 | トップページ | 池禅尼と牧の方1 »

2019年2月 8日 (金)

義朝の叙爵・任官の背景3

 保元の乱は待賢門院関係者に亀裂を生んだが、保元四年二月に統子内親王が院号宣下により上西門院となった際には憲方は別当の一人となり、殿上人の中には修理大夫源資賢(有賢の嫡子)と故通基(久安四年一〇月死亡)の子能登守基家がみえている。基家は久安四年正月に兄通重が丹波守に遷任した跡の能登守に補任されている。能登国は女院の分国であった。通重は待賢門院の同母兄徳大寺実能の孫娘を妻としたが、久安五年八月に早世し、その遺児能保は三才でしかなかったため、基家が一族の中心となり、公卿に進んで持明院家の祖となった。能保は昇進は遅れがちであったが、その間に義朝の遺児で頼朝の同母姉妹(後の坊門姫)を妻とした。
 義朝が関東で最初の拠点としたのは上総国であり、康治二年には上総氏と結んで下総国相馬御厨に介入して、庄官千葉氏を屈服させている。当時の上総守は院近臣藤原敦兼の子季兼であった。尾張国目代の季兼とは同姓同名であるが別人である。敦兼の母は堀河天皇の乳母兼子で、敦兼の従姉妹にあたる女性であった。大治三年一二月日待賢門院牒には別当の一人として「但馬守藤原朝臣」と署名しているのが敦兼である。翌四年一一月三日鳥羽院庁牒の署判者としてもみえる。保延元年五月日待賢門院庁下文、同二年二月一一日鳥羽院庁牒の署判者であり、両院の近臣であった。
 以上のように、仁平三年三月二八日の義朝と範忠の叙爵には白河院の姉と娘の給分が充てられた形となっており、これを可能としたのは院近臣藤原清隆の関与である。そして鳥羽院サイドよりも、待賢門院の嫡子崇德院サイドの働きかけが大きかった。これと義朝が保元の乱で後白河天皇方となったことは必ずしも矛盾しない。待賢門院流の多数の人々は現実的対応として女院の第四皇子雅仁側を選択せざるを得なかった。保元の乱は藤原忠通が弟頼長を排除する機会を狙っていたことが原因であり、近衛天皇と鳥羽院が期間をさほど置かずに相次いで死亡するようなことがなければ勃発しなかった可能性が高い。例えば、鳥羽・近衛の順に相次いで死亡するケースでは、崇德による院政が実現し、近衛の死後、鳥羽が五年程度生きていれば、頼長は失脚しており、乱には至らなかったであろう。

« 義朝の叙爵・任官の背景2 | トップページ | 池禅尼と牧の方1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義朝の叙爵・任官の背景3:

« 義朝の叙爵・任官の背景2 | トップページ | 池禅尼と牧の方1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ