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2019年2月21日 (木)

藤原光能3

 後白河院とともに平清盛との関係も強めた形だが、滋子の母は勧修寺流藤原顕頼の娘であったこともあり、滋子は待賢門院の子上西門院女房となっていた。その異母弟平親宗も待賢門院別当藤原基隆の娘が母であり、その子親国も待賢門院別当藤原清隆の嫡子光隆の娘を妻としていた。文治元年一二月に親宗は頼朝の要求により解官されたが、それは義経との関係による一時的なもので、その後まもなく復任している。藤原朝方も勧修寺流で待賢門院流の一員であったが、一方では奥州藤原氏と深い関わりを有していたため、議奏公卿には推薦されなかった。後に義経と与同しているとして、一時出雲国知行国主を解任されたが、これも短期間で復帰している。
 光能の立場も後白河派・清盛派というよりも滋子派(上西門院女房から建春門院女房に転じた例も多い)というべきもので、安元二年一二月五日には滋子の子高倉天皇の蔵人頭に補任された。同年七月八日に滋子が死亡したことで、後白河院と清盛の間に亀裂が生じるが、光能が選択したのは待賢門院の子後白河院であり、治承三年一〇月には参議に補任されたが、翌月の清盛のクーデターで解任された。
 光能には東国御家人足立遠元との間に二人の男子がいたとされる。弟と思われる光俊は公卿になったため、その経歴を確認でき、頼朝挙兵前年の治承三年の生まれである。遠元そのものは平治の乱で義朝方として参陣して敗北したが、生き残り、挙兵以前から頼朝と連絡を取っていたとされる。藤原光能と遠元娘の結婚も「待賢門院流」という分脈で理解が可能であるし、東国武士が公家社会と結びついていたことを示す事例である。光俊は一二才で叙爵し、四年後に一条高能の働きかけで讃岐守に補任されている。高能は一条能保と頼朝の同母妹坊門姫の間に生まれ、能保が讃岐国知行国主であった。そのもとで国守に補任されたのは藤原家成の嫡子隆季の子隆保であった。隆保の母は待賢門院別当藤原基隆の嫡子忠隆の娘であった。隆保の後任中原光俊を間に挟んで、藤原光俊が讃岐守に補任された。
 以上のように光能の立場は「待賢門院流」であり、平清盛とは一線を画すものであった。頼朝の挙兵に光能とその後室の父足立遠元が関わったのは当然の選択であった。その光能と頼朝の父義朝を「後白河院近臣」と決めつけてしまうことは、実態解明の妨げにしかならない。
※修正:知行国主藤原能保のもとで讃岐守に補任されたのは源能保であったが、公卿補任の当該記事を認識しておらず、『仙洞御移徙部類記』活字本の注記「隆保(藤原)」により、下線部のように隆季の子隆保と誤ってしまった(「一条能保と源隆保」を参照のこと)。

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