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2019年2月12日 (火)

藤原公佐をめぐって3

 一方で佐伯氏は、美福門院系が皇位と所領を継承することが鳥羽院の構想であったとし、美福門院所生の近衛を崇德の養子とし、姝子内親王を待賢門院所生の統子内親王の養女(保元元年三月以前)として、成勝寺領などの崇德院領と待賢門院から統子が受け継いだ所領が美福門院流の皇子女のもとへ環流するよう予定されていたと述べた。これについては、御願寺領の伝領のあり方、さらには待賢門院領のほとんどを崇德が管理し、保元の乱以前に統子が継承していた所領は限られていた事からして疑問である。崇德の子重仁親王も健在であった。
 佐伯氏は重仁への親王宣下が誕生の年ではなくその翌年であることから、重仁がその誕生時(保延六年九月二日)に皇位継承候補として想定されていなかったとする下郡剛氏の見解も紹介しているが、親王宣下は近衛天皇の即位した永治元年一二月七日に先立つ一二月二日になされている。重仁誕生時の最大の問題は中宮聖子との関係であろう。聖子も一九才であり、崇德との間に皇子が誕生してもおかしくなかった。その点を配慮しつつ、崇德の譲位前に重仁の親王宣下をしたと思われる。
 成親と隆頼はともに藤原俊成の娘を妻とし、隆頼の娘は祖父俊成の養女となって源通親の子通具との間に具定を産んでいる。成親の子公佐は、父成親が鹿ヶ谷の陰謀により死亡したため、実国の養子になったことは前述のとおりである。通具の子で具定の兄弟である具実の母については不明だが、公佐の娘が具実の妻となり、嫡子基具(太政大臣)を産んでいる。
 俊成は父俊忠と藤原敦家の娘の間に生まれた。俊忠の娘は藤原伊通(元永元年正月に璋子が中宮となった際の中宮大夫で顕仁親王家の勅別当でもあった宗通の子、待賢門院庁別当)、藤原光房(為隆の嫡子で、弟憲光は顕仁親王家蔵人)、藤原顕頼(元永元年正月の中宮亮で、顕仁親王家政所別当顕隆の嫡子、待賢門院庁別当)、徳大寺公能(女院の同母兄実能の子)、藤原頼長(忠実の子)と結婚しており、幅広い人脈を構築している。俊成自身も当初は義兄である顕頼の猶子となり顕広と名乗って美作(院分)、加賀、遠江守を歴任した。一四才の大治二年の叙爵後一八年目の久安元年に従五位上に進むが、皇后宮(美福門院)御給であり、この前に皇后女房美福門院加賀を妻としたと考えられる。

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