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2019年2月25日 (月)

源頼政をめぐって2

 次いで永井氏が説くように延慶本『平家物語』に記される御所の鵺退治により、伊豆国知行国主頼政、守はその嫡子仲綱という体制は、女御滋子の侍であった隠岐守中原宗家が伊豆守に遷任してきた仁安二年一二月三〇日まで続いたと思われる。宗家は院号宣下後の建春門院庁でも大属を務めており、宗家が国守であった時期の隠岐国と伊豆国は女院の分国であった可能性が大きい。
 二条天皇は永万元年七月二八日に二三才で死亡し、三才(生後一年八ヶ月)の六条天皇が即位した。これにより後白河院による院政が復活したが、六条天皇の実質的外戚徳大寺氏などの天皇の支援勢力は健在で、後白河が滋子の子憲仁の立太子を行ったのは一年後であった。仁安元年一〇月二一日に頼政が正五位下に叙せられ、一二月三〇日には六条天皇への昇殿を認められた。頼政は翌二年一月三〇日に従四位下、三年一一月二〇日には従四位上に叙せられている。この間、三年二月一九日には六条天皇は退位し、後白河と滋子の子憲仁が即位して高倉天皇となったが、退位した五才の六条院とその支援勢力は健在であったことがわかる。頼政はその後も承安元年一二月一九日には正四位下に叙され、同三年一月一九日には右京権大夫とともに備後権守を兼ねている。次いで安元二年二月五日には頼政自身が右京権大夫と備後権守を辞することで、嫡子仲綱が正五位下に叙せられている。同じ頃、嫡子仲綱が隠岐守から伊豆守に遷任し、頼政が再び伊豆国知行国主となった。
 こうした状況のもと、六条院が安元二年七月一七日に一三才で死亡した。これは六条院派にとり打撃となり、両官を辞任した頼政は散位のままであった。子の任官と引き換えに職を辞したとしても多くの場合はまもなくより高い官職に補任されることが普通であるにもかかわらず。そうした中で頼政と清盛の関係が生まれ、治承二年一二月二四日に清盛の奏請により頼政の従三位=公卿叙任が実現した。この間、安元三年六月には鹿ヶ谷の陰謀事件が起こっているが、今回は触れずに後に回すことにする。
 永井氏は治承三年一一月のクーデターで後白河院を幽閉した清盛が、反平家の核となる可能性のある以仁王を排除するため、美濃源氏源光長とともに頼政の養子兼綱の追討使派遣を決めたことにより、本来、以仁王に加担するはずのない頼政が、王とともに挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたとする説を示した。頼政は清盛が考えた以上に事態を穏便に処理するため、以仁王に派遣を知らせる使者を送ったが、以仁王が予想に反して御所を脱出したため、追討使派遣は空振りに終わってしまった。これにより自らの通報と養子兼綱の失敗による責任追及を恐れた頼政が以仁王との合流を選択したとするものである。この説が成り立つためにはクリアーすべき課題がたくさんあるように思えるというのが本ブログの当座の見解である。

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