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2019年2月14日 (木)

信西入道と二人の父2

 父経成の場合も初任の備後守から次の常陸守補任(一一〇三)までやはり二〇年近くかかっており、高階氏一族内での地位は必ずしも高くなかった。その後、鳥羽天皇が死亡し、白河院政が本格化したことで登用され、経敏は武蔵守を二期八年務めた後には、能登守を六年、長門守を四年、連続して務めている(~一一三〇)。
 養父経敏のもとで、通憲は天治元年(一一二四)には璋子の中宮権少進に、院号宣下後には院庁判官代に起用され、次いで翌年には蔵人兼右近将監に補任された。その後、大治二年(一一二七)には従五位下に授爵したが蔵人の任は解かれた。養父高階経敏についても大治五年(一一三〇)正月=長門守去任以降の動向に関する史料はない。
 保安三年(一一二二)から長承三年(一一三四)までの間に高階一族の重仲の娘との間に知られているだけでも六人の男子を成していたが、その翌年には藤原兼永の娘朝子との間に成範が生まれている。朝子は大治二年に誕生した鳥羽院の第四皇子雅仁の乳母となっていた。保延四年(一一三八)から翌五年にかけては日向守に現任し、保延六年(一一四〇)には上総国二宮橘木社を鳥羽院の御願寺安楽寿院に寄進し、鳥羽院宣により立券が認められている。
 康治二年に正五位下に叙され、その翌年には本姓藤原に戻って少納言に補任されたのは実務官僚としての登用のためであったが、同年には出家し、信西と名乗った。通憲の父通憲の祖父季綱と源義朝の妻の祖父季兼は従姉妹であった。

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