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2019年2月10日 (日)

池禅尼と牧の方2

 先ずは池の禅尼の父宗兼について確認すると、生年は不明だが、永治元年一二月に出家したことが確認できる。その嫡子宗長も生年は不明だが、仁平三年に死亡しており(本朝世紀)、宗兼も出家後間もなく死亡した可能性が高い。問題は平忠盛の後室で頼盛の母である宗子(池禅尼)の生没年が不明なことである。典拠を確認できていないが、長治元年(一一〇四)生で、長寛二年(一一六四)との説は、その子家盛、頼盛並びに父宗兼・兄宗長の活動時期とは適合している。宗兼の妹宗子が産んだ鳥羽院の寵臣で、宗兼の子達と同世代である藤原家成は嘉承二年(一一〇七)生まれ、仁平四年(一一五四)没であり、宗兼の子宗親が頼朝挙兵時点で生きている可能性は限りなくゼロに近く、『吾妻鏡』中の大岡宗親である可能性はゼロである。それゆえに、野口氏は子の時親と混同したとした。ただし、北条氏中心の『吾妻鏡』においてその近親者を混同する可能性はかなり低いとすべきである。
 野口氏は、鎌倉初期の『閑谷集』の作者は健久三年に「六波羅探題」としてみえる牧四郎国親の子に比定できるという国文学者浅見和彦氏の論文を紹介した上で、国親を宗親の兄弟としているが、池禅尼の系図にその兄弟として国親はみえない。論文Ⅱの〈牧(大岡)氏とその係累〉系図にはさらに兄弟として「政親?」も記されている。牧の方の兄時親を含め、大岡牧の牧氏一族には「親」の通字が使われている。これに対して、池の禅尼の兄弟(宗長とともに宗賢もみえる)、父のみならず、祖父も隆宗で、こちらは「宗」を通字としており、牧氏とは明らかに違っている。池禅尼の兄弟が、その子池頼盛領の管理者として現地に土着する可能性も極めて低い。
 禅尼の兄弟宗長と宗賢の子が系図に記されないのは、宗長が待賢門院判官代からその子崇德院の院庁の役人となったため、その関係者が保元の乱で崇德方となって没落したためではないか。下野守源義朝の前任者「藤原宗国」については系譜上の位置づけができないが、「宗」が付いている。その前任者が藤原宗長であった。宗長は日野資憲が崇德院庁別当に専念するために、任期途中で下野守を辞した跡に和泉守から遷任した。その前任は石見守であったが、和泉・石見両国は待賢門院の分国であった。以上により、大岡宗親は池禅尼の兄弟宗親と別人であることは明らかである。付け加えると、後白河院の側近として頼朝とやりあった高階泰経の母もまた、宗兼の娘であった。泰経は宗親より一世代下であるが、建仁元年一一月に七二才で死亡している。

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