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2019年2月21日 (木)

藤原光能2

 光能が一五才で叙爵したのは統子内親王未給であるが、その背景としては母方の曾祖父藤原敦家の存在があった。敦家の妻兼子は堀河天皇の乳母であり、その子敦兼は待賢門院別当であった。敦兼の同母妹が光能の祖母であった。光能の姉妹は徳大寺公能の妻と持明院基宗の妻となっている。公能は待賢門院の甥であり、基宗は待賢門院別当通基の子基家を父とし、上西門院女房因幡を母としていた。ただ、保元の乱で待賢門院の嫡子崇德院が失脚したことにより、光能が従五位上に叙せられたのはその一八年後の長寛二年一一月一六日であった。一ヵ月前の一〇月二三日には従兄弟(忠成の同母妹が母)である徳大寺実定が権大納言に補任されていた。
 翌年八月一七日に実定は正二位に叙せられたが、権大納言を辞任している。これに替わって権大納言に補任されたのが平清盛であった。その背景には二条天皇が六月二五日に死亡し、二才の六条天皇が即位したことがあった。徳大寺家は二条天皇と六条天皇の実質的外戚の立場にあった。光能も二条天皇派であったが、二条天皇の死により主導権を取り戻した後白河院は、清盛の妻時子の異母妹滋子の産んだ憲仁に親王宣旨を行い、翌仁安元年に立太子、同三年二月には高倉天皇として即位させ、院政が復活した。
 永万元年一二月に光能は下野守に補任されたが、これは藤原懐遠が辞任したことで実現した。懐遠は待賢門院判官代日野資光の妻で待賢門院女房であった関屋の兄弟であった。それが仁安二年正月二八日には院司となっており、二条天皇・六条天皇派から後白河院派に転じたことがわかる。同三年三月二八日には皇太后入内賞として従四位下に叙せられ、八月四日には正四位下皇太后宮権亮となった。三月二〇日に高倉天皇の母である女御滋子が皇太后に立てられたことに伴うものであった。

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