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2019年2月 3日 (日)

藤原忠清について2

 隆時の嫡子清隆は翌嘉承三年一月二四日の除目で叙爵(従五位下)し、忠清入道の子が蔵人に補任された直後の一月三〇日には二六才で紀伊守(白河院分国)に補任されている。次いで元永元年(一一一八)正月に女御璋子が中宮に立后された際には清隆は中宮権大進に補任されている。この時点では忠清の子女も従兄弟である清隆(三六才)の保護下にあったのではないか。忠清の母は高階為行の娘である。その状況下で忠清の娘が源為義の室となり、義朝が生まれたのではないか。翌元永二年一一月一一日には清隆の同母弟中宮(璋子)少進範隆が蔵人に補任されている。長承二年八月二七日には女院判官代兼甲斐守であった範隆が三七才で死亡している(中右記)。
 義朝は仁平三年(一一五三)三月二八日に従五位下に叙されるとともに下野守に補任されている。叙爵は白河院の娘(第二皇女で二二年前の大治六年に死亡)故善子内親王合爵によるものであった。前述の嘉承二年一二月に故隆時亭を斎院の任を終えて帰京した善子内親王に御所として提供した行為に基づくものではないか。すなわち、義朝の任官はその室の実家である熱田大宮司家との関係(角田文衞氏、上横手雅敬氏)ではなく、母の実家忠清家の本家である隆時-清隆家との関係で実現したものである。五味文彦氏は義朝の母である忠清女の弟行俊が待賢門院蔵人であったことから、母もまた待賢門院女房であった可能性が高いとするが、その点は不明である(必要条件ではない)。
 義朝の父為義の母は日野有綱の娘で、その従姉妹(従兄弟)には待賢門院別当平忠盛の後室となった池禅尼(宗子)と待賢門院庁判官代宗長の母や、待賢門院女房(後に崇德院女房)阿波の父で自らも待賢門院庁の判官代から別当に進んだ日野資光がいた。資光の室には待賢門院女房関屋もいた。阿波の夫資憲は鳥羽院庁別当であったが、崇德が異母弟近衛に譲位すると、下野守を辞職(後任は宗長)崇德院庁の別当となった。
 以上のように白河院の寵愛を受け鳥羽天皇の中宮となった璋子(待賢門院)を核として広範囲な人々が結びつき「待賢門院流」が形成され、為義-義朝父子もその一員であった。「待賢門院流」の嫡男であった崇德院は保元の乱により失脚したが、女院の子後白河院と統子内親王(上西門院)は生き残り、所領も維持された。その意味で、義朝の子頼朝が保元三年二月に統子が立后された際に皇太后宮権少進に補任され、翌年二月に院号宣下で上西門院となるとその蔵人となり、六月には後白河院の子二条天皇の内蔵人に補任されたことには矛盾はない。

 

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