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2019年2月12日 (火)

藤原公佐をめぐって2

 公佐の父成親と頼朝の関係で想起されるのは、藤原隆頼(盛頼から改名)と平康頼が、頼朝から所領(肥前国晴気保地頭職と阿波国麻殖保保司職)を与えられていることである。この点を分析した服部英雄氏は、両者は尾張国知行国主藤原成親のもとで、隆頼(成親の同母弟)は国守、康頼は目代を務めていたことをあきらかにした。康頼については平家家人であったこともあったが、目代として同国野間庄内にあった頼朝の父義朝のため所領三〇町を寄進し、小堂を建立していた。その恩に応えるための康頼の麻殖保保司職補任であった。
 成親と隆頼は鳥羽院の寵臣藤原家成と白河院の近臣藤原経忠の娘隆子の間に生まれている。隆子の母実子は待賢門院璋子の異母姉であった。隆子が女院の子崇德の乳母となったのはそのためであった。兄弟の父家成も元永二年六月一九日に顕仁親王(崇德)家職員が補任された際には、蔵人に補任されている。佐伯智宏氏は白河院が曾孫崇德の側近の核として家成を配したが、白河院の死後、新たに治天の君となった鳥羽院が、家成を自らの寵臣としたことを明らかにしている。
 佐伯氏は一方では、鳥羽院が崇德を祖父白河の子として「叔父子」と呼んだとする『古事談』の記事について、康治二年六月一八日の鳥羽院第四皇子雅仁親王の子守仁親王(後の二条天皇)誕生後に関白藤原忠通によって流されたものであるとする美川圭氏の見解を紹介しつつ、近衛の死までは鳥羽と崇德の間には大きな対立はなかったとした。実態としても、近衛は崇德・中宮聖子夫妻の養子となり、近衛と普段同居していたのは実母美福門院ではなく、養母聖子であることも明らかにした。
 従来、院近臣で待賢門院の同母兄である徳大寺実能や藤原家成、藤原顕頼、藤原清隆らが美福門院派に乗り換えたことが指摘されているが、鳥羽と崇德の間の関係を踏まえれば、待賢門院・崇德と関係の深い人物が美福門院との間に関係を持つことは乗り換えでも裏切りでもなく、鳥羽院の近臣としては普通のことであった。白河院の死後、鳥羽院がその構想を修正したの同様、鳥羽院の死後、崇德院が院政を行う可能性は高かった。

 

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