koewokiku(HPへ)

« 伯耆守平忠盛1 | トップページ | 第三者委員会1 »

2019年2月 3日 (日)

伯耆守平忠盛2

 小槻盛仲については、永久四年正月二三日の時点では「修理右宮城判官正五位下行左大史兼博士」、永久五年一〇月一三日には「内匠助〔頭〕兼左大史算博士越後介」とみえる。そして永久四年七月一二日の太政官符(朝野群裁、大日史三-一七)と太政官牒(官牒〈天仁 天永 永久〉、大日史三-一八)が残されている。前者には「修理右宮城判官正五位下行左大史兼算博士播磨守」とあり、後者には「修理右宮城判官正五位下行左大史兼算博士越後介」とある。前者は「介」と「守」が違い、後者は「播磨」と「越後」が違っている。なにより同じ日でありながら前者は「播磨守」、後者は「越後介」と異なっている。はっきりしているのは、永久四年七月二四日以前に盛仲は播磨介か越後介に補任されたことである。永久三年三月二九日から保安二年六月二六日にかけての播磨守は院近臣藤原基隆であるので、「播磨守」の可能性は排除できる。
 盛仲は嘉承二年正月から天永三年までは土佐権介を兼ねていた。それから五年が経過したとして永久四年正月二九日には、再び国司を兼任することが検討されている。短期間の播磨介を経て越後介に遷任した可能性はあるが、播磨関係史料が前記の史料以外見られないのに対して、「越後介」であったことは元永元年六月まで複数の史料で確認できるので、「播磨介」も誤りとみてよかろう。以上により、盛仲は永久四年正月以降に越後介を兼任していたことになり、為隆と盛仲の検討では永久四年か五年かを確定できない。
 残るは家光と忠盛の在任期間であるが、家光の任期を二期八年とすると、永久四年正月に交替があったはずである。一方、忠盛は保安元年一一月二五日に越前守藤原顕盛と相博する形で遷任しており、永久四年三月二〇日補任なら四年八ヶ月、同五年なら三年八ヶ月となる。越前守は嘉承二年一二月二一日に重任した藤原仲実が四年後の天永三年一二月一四日にも現任しているが、翌四年三月二二日には「越前前司」(長秋記)となっており、正月に顕盛が補任された可能性が大きい。そして顕盛の任期八年と忠盛に任期四年が近づいてきた保安元年一一月二五日に相博したのではないか。
 以上、回りくどい事を述べたが、忠盛の伯耆守補任を五味氏は永久四年三月二〇日とされたが、永久五年三月二〇日の可能性がより高いのではないか。その場合、家光が体調を崩して二期八年以前に辞任し、短期間別の人物が伯耆守に補任されたことになる。あー疲れたというのが実感である。 

« 伯耆守平忠盛1 | トップページ | 第三者委員会1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伯耆守平忠盛2:

« 伯耆守平忠盛1 | トップページ | 第三者委員会1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ