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2019年2月 8日 (金)

義朝の叙爵・任官の背景1

 頼朝の父義朝については、頼朝の母が熱田大宮司家の出身であること、母の姉妹には待賢門院とその娘上西門院の女房がいたことが早くから注目されてきた。一方で、義朝の母方の外祖父忠清が白河院の近臣であったことも指摘されている。この問題について再検討する。
 熱田大宮司家が過大評価されていることを指摘したのは、上横手雅敬氏「院政期の源氏」(『御家人制の研究』)であった。藤原南家の季兼が参河国に住み、康和三年(一一〇一)一〇月七日に尾張国目代となったとする(尊卑分脈)。時の尾張守は藤原長実で、頼朝の舅季範が生まれた一一年後で、季兼は五八才である。異母兄弟の季綱は長門・越後・備前守を歴任し、その子尹通は院近臣、娘悦子は鳥羽院の乳母となっているが、季兼自身の経歴はぱっとしない。
 季兼は大宮司尾張員職の娘を妻とし、子季範が大宮司職を譲られた。分脈には季範を従四位下とするが、任官の有無は不明であり、信じがたい。その兄弟範信にも従四位下と記されているが、その中央での活動は確認できない。季範の嫡子で白河院北面源行遠(『宇治拾遺物語』にみえる)の娘を母とする範忠が義朝と同日で叙爵し、式部丞に任官していることから、義朝の叙爵・任官は妻の実家熱田大宮司家の勢力を背景とする見解があるがどうであろうか。範忠の娘が義朝の従兄弟で四才年下足利義康の妻となっていることを踏まえると、範忠は義朝より一〇才以上年上であったと思われる。その出世は遅く、とても義朝の後押しをできるようなものではない。範忠の姉妹に待賢門院女房大進局と上西門院千秋尼がいることも、季範の従兄弟尹通や悦子を通じたものであろうか。
 義朝が叙爵し下野守に補任された仁平三年三月二八日の除目は急遽行われた。『兵範記』は結果のみ記すが、『本朝世紀』によると、会議は他の参議が欠席し、藤原清隆のみによって行われた。文書を作成した左少弁平範家は清隆の娘を妻としていた。義朝の叙爵の根拠は二〇年以上前に死亡していた白河院の娘善子内親王の未給分による合爵であった。善子内親王が清隆の亡父隆時亭を御所としたことはすでに述べた。義朝の母は清隆の叔父忠清の娘であったが、義朝の子頼朝が誕生した時点では、忠清は出家しており、清隆の影響下にあったことも前に述べた。

 

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