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2019年2月12日 (火)

藤原公佐をめぐって1

 公佐は後白河院の近臣藤原成親の子として生まれるが、父が鹿ヶ谷の陰謀で失脚、配流後に死亡したため、父の姉妹の夫である三条実国の養子となった。文治元年一二月の時点で、頼朝の代官北条時政が京都に派遣され、朝廷との交渉に当たっていたが、頼朝は京都の情報を縁戚関係にある左馬頭一条能保と侍従公佐を通じて得ていたとされる。能保は平家の都落後、平頼盛らとともに鎌倉にいたことがあり、その後、都に戻っていた。公佐が時政の娘阿波局と阿野全成の間に生まれた娘と結婚したのは、子実直が1209年生まれなので、全成が二代将軍頼家によって配流・殺害された(1203)後であろう。
 公佐は頼朝の推薦(文治元年一二月六日)を受けて翌二年正月に右馬権守に補任され、建久元年六月には後白河院の殿上人となったが、建久三年三月の後白河院死亡後、何らかの原因で除籍されて昇殿資格を失った。公佐は頼朝に対して科は無いとして、取りなしを依頼しているが、頼朝は問題がなければ処分されないとして断っている。その後、建久五年一二月二六日の鎌倉永福寺内新造薬師堂供養には、頼朝の供奉人と随兵に続いてみえる布施取九人(幕府祗候の公家か)の中に「左馬権頭公佐」がみえる。承久元年正月の三代将軍実朝暗殺後には全成の子で公佐の妻の兄弟である阿野時元が反北条氏の兵を挙げて鎮圧されている。
 承久の乱後の嘉禄元年(一二二五)一一月二一日の五節の際には初めて出仕した侍従の一人として公佐の子実直(一七才)がみえている。次いで嘉禄二年一〇月二六日の時点では「故右馬頭公佐朝臣」とみえ、公佐が死亡していることがわかる。公佐の生年は不明だが、父成親が鹿ヶ谷の陰謀で死亡していることから五〇才を越えていたことは確実である。安貞元年四月二五日には賀茂祭の近衛使として「右近衛権少将藤原実直」がみえるが、大納言三条実宣の養子となっていた。実宣は父公佐の養父実国の嫡孫で、実直の従兄弟であった。実国は父公教と母藤原憲方の娘の間に生まれ、その嫡子公時は公佐の実夫成親の姉妹(家成の娘)を母とする。そして公時と吉田経房の娘の間に生まれたのが実宣であり、持明院基宗の娘を妻としていた。実国の母方の祖父と吉田経房の祖父とは藤原為隆である。

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