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2019年2月 3日 (日)

藤原忠清について1

 一一世紀末から一二世紀初めに七年間出雲守を務めた藤原忠清については大日方克己氏が「平安後期の出雲国司」の中で述べている。藤原北家右衛門佐清綱の子で、父が摂関家の識事であったのに対して、出雲守から遷任した淡路守の時代に白河院の使として藤原忠実にもとに派遣されるなど、白河院との関係がみられるとしている。忠清の母方の祖父高階為行は後冷泉天皇の御落胤であったが、高階為家の養子となっていた。前任の出雲守高階重仲も摂関家家司であったが、忠清以降は院との関係が深い人物が出雲守となっている。
 ここで忠清について述べるのは、彼の娘が源為義との間に長男義朝を産んでいることと、忠清の異母兄で正四位下白河院別当である隆時の嫡子が白河・鳥羽院の近臣で待賢門院庁別当清隆であるからである。清隆は子光隆を出雲守とし、知行国主として久安の杵築大社造営を行った「待賢門院流」の重要人物(出雲守と伯耆守を務めた平基親の母方の祖父でもある)であるが、大日方氏はこの点については全く言及されていない。
 隆時は清隆と同様各国(因幡→但馬→近江→因幡)の受領を歴任する一方で、白河院判官代から四位別当に進んでおり、院近臣であった。嘉承二年(一一〇七)一二月三〇日には伊勢から帰京した前斎宮善子内親王が「故隆時」(忠清兄)の中御門富小路第に入り、ここが前斎院御所中御門亭となった。これ以前に隆時が死亡していたことがわかる。
 忠清自身は淡路守であった長治元年七月九日に春宮(鳥羽天皇)権少進を兼務しており、嘉承二年一〇月二二日には刑部権少輔に補任されている。永久四年一月二一日に忠清の子が蔵人に補任された際に「院蔵人一臈忠清入道男」とあり、この時点では出家していたことがわかるが、その活動はこれ以降確認できない。忠清の同母兄弟清仁は保延二年一〇月一五日には待賢門院の御願寺法金剛院の上座法橋となっており、隆重の娘(姪)は待賢門院女房右衛門権佐で、その子忠重はこれまた待賢門院庁別当であった平忠盛の養子となっている。

 

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