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2019年2月25日 (月)

源頼政をめぐって1

 歌人として知られ、以仁王とともに反平家の兵を挙げたとされる源頼政については、近年永井晋氏『源頼政と木曾義仲』の中で分析されているが、とりあえず以下で確認してみたい。
 頼政は源満仲の子頼光を祖とする摂津源氏に属している。頼光の子頼国はその娘を勧修寺流藤原為房を初めとする有力公家のもとに嫁がせている。それは頼国の子頼綱も同様であった。頼綱の子が頼政の父仲政であるが、その兄弟には美濃国山県郡を拠点とした山県国直がいる。姉妹には関白藤原師通の側室、待賢門院別当源能俊室で嫡子俊雅の母となった女性の外に白河院の後室に入り官子内親王を産んだ女性、藤原盛実娘との間に藤原頼長を産んだ女性もいた。
 仲政は堀河天皇蔵人(『中右記』嘉保二年六月二〇日条)、皇后宮大進(『殿暦』天仁元年五月一七日条)、下総守(『中右記』元永元年二月五日条)を歴任し、保安四年一一月一日には「前下野守源仲正随身が源義親と称する者を捕らえている(『百錬抄』)。系図には兵庫頭であったとの記述もある。
 頼政の母方の祖父友実は藤原南家季綱の子であったが、三七才で死亡し、その異母弟尹通が白河院近臣となった。頼政も保延二年四月一七日に三三才で、四年前に死亡していた白河の女御道子の未給分として崇德天皇の蔵人に補任された。鳥羽院ではなく白河院-待賢門院-崇德天皇系に属していた。それが仁平三年二月には美福門院への昇殿を許され、女院との関係を強めた。久寿二年一〇月二二日に兵庫頭に補任されたのは女院との関係であろう。
 保元の乱で頼政は源義朝と同様後白河方となり、保元三年八月一一日に女院の養子となっていた後白河の子守仁(二条天皇)が即位すると、その直後の二三日には坊官(春宮関係者)賞として頼政の嫡子で蔵人であった仲綱が叙爵している。平治元年一二月に藤原信頼が源義朝、さらには後白河院近臣信西入道に反発する二条天皇派と結んでクーデターを起こし、一二月一四日の除目で頼政は伊豆国を知行国として与えられたとする(『参考平治物語』)。クーデターそのものは二条天皇派が離脱して熊野詣から帰洛した平清盛と結んだことにより失敗したが、二条天皇派である頼政への恩賞はそのまま認められたと思われる。天皇の養母となっていた美福門院は永暦元年一一月二三日に死亡しているが、その後の天皇の後ろ盾となったのは実質的外戚であった徳大寺氏であった。

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