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2019年2月 3日 (日)

伯耆守平忠盛1

 平忠盛は院近臣として西国受領を歴任しつつ、政治的・経済的・軍事的基盤を築いたとされるが、大夫尉(従五位下の検非違使)から初の受領である伯耆守に補任された時期については、最新の鳥取県史の国司一覧表でも永久五年(一一一七)一一月二六日が現任の初見とされている。この日に鳥羽天皇の女御として入内した璋子の家司が補任されたが、その中に「従五位下伯耆守兼右馬権頭平忠盛」がみえている。一三才で左衛門少尉に補任されてから九年後であった。
 「朝野群載」には従五位下平朝臣忠盛が去三月二〇日に補任された事を伝える太政官符が掲載されているが、年月日は不明であり、そこに名前がみえる「造東大寺長官正四位下行左中弁藤原朝臣(為隆)」と修理亮〔右〕宮城判官正五位下左大史纂博士播磨介小槻宿祢(盛仲)」が時期比定の材料となる。ちなみに、忠盛以前の伯耆守として確認できるのは白河院が初めて主導した嘉承三年正月二四日に補任された藤原家光であるが、永久二年七月二四日に現任していたことと、元永二年には死亡していたことしか確認できない。家光から忠盛に交代したとすると、その時期は永久三年から永久五年の間となる。
 『鳥取県史』や『平安遺文』では太政官符を年未詳としているが、五味文彦氏「大庭御厨と「義朝濫行」の背景」(『院政期社会の研究』)では永久四年のものであると明記されている。以下でその根拠について検討する。
 為隆は為房の長子であるが、公卿補任には元永二年正月一八日に遠江守と造東大寺長官に補任されたとあり、さきほどの比定と矛盾する。遠江守補任は元永元年正月一八日であり、造東大寺長官の初見史料は永久二年五月二八日(東大寺文書)である。これなら矛盾しない。為隆が右中弁から左中弁に転じるのは永久三年八月一三日であり、これにより永久三年の可能性は消滅した。残るは四年三月二〇日か五年かである。

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