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2019年1月26日 (土)

益田兼胤領の没収

 益田實氏所蔵新出史料の中に、正和五年二月二四日六波羅探題御教書がある。益田兼長後家阿忍が伊甘郷文書の返還を求め、幕府が東山道郷地頭道忍(解説では「寛忍」と読んだ上で道忍のことである可能性が高いとしているが、同文書中の「寛元二年」の「寛」とは明らかに字体が異なっており、一画目と二画目のバランスが良くないが「道」と読むことができる。この文書については写である可能性もある)に返還を命じたが拒否したとして、土屋氏に対して返還命令を道忍に再度伝えるよう命じている。阿忍は同年二月二一日には置文を作成するとともに、所領である弥富名を子孫に譲っている。伊甘郷については三年前に道忍への譲りを悔い返して、孫娘(孫夜叉=鳥居女房)に譲っていた。死期が迫ってきたことで譲ったと思われる。阿忍死亡後も鳥居女房により訴えは継続され、いつまでも道忍が文書を抑留すれば、東山道郷の没収もありえたため、最終的には返還し、その後、道忍の孫兼見が伊甘郷を獲得したことで、文書も入手したと思われる。
 宛名の土屋□衛門六郎入道については摺消、書き直しがあるとのことで、若干の留保が必要であるが、これを前提とすると、この時点までに、鎌倉初期に得た安濃郡大田北郷に加えて邑智郡桜井庄の地頭となっていた可能性が高い。
 道忍が抑留した阿忍文書の内、寛元二年七月一八日関東下知状は、益田兼時死亡に伴う遺領配分に関するものであろう。兼時は仁治三年(一二四二)四月二五日関東下知状には「左衛門尉兼時」とみえ健在であった。前に述べたように、この時点で兼時の二男兼久は「松房丸」と呼ばれており幼少であった。嫡子兼長の妻となる阿忍についても嘉禎三年(一二三七)前後の生まれとして矛盾がないとしたが、そうすると兼長も寛元二年時点では一〇才前後となる。
 兼長が兼時の後継者となり、庶子兼久は長野庄内の美濃郡飯田郷と邇摩郡宅野別符を配分され、後に周布氏領安富郷を譲られていた兼定の養女幸寿を妻とした。すると阿忍二五才時に兼長が死亡し、益田氏惣領と兼長領は兼久が継承したが、一方で阿忍は兼長跡の後家とされた。文永一〇年に阿忍は伊甘郷の配分を受けた。前には兼長領の配分が文永一〇年に行われたとしたが、そうではなく、兼久領の配分として亡夫兼長領であった伊甘郷と弥富名を得た。この時点で兼久はすでに死亡していた可能性が高い。益田氏惣領の地位と兼久領の多くは嫡子兼胤が相続した。
 以上のように考えたのは、兼胤が所領を相続していなければ、彼が女捕の科で所領を没収されることはあり得ないからである。女捕の被害者は兼長と阿忍の間に生まれた娘であったが、結果としては兼胤の妻となり兼弘を産んだ。兼弘(道忍)はわずかに没収を逃れた東山道郷の地頭となった。その兼弘が成長した時点で伊甘郷を譲ったが、それが幕府により安堵されるのは阿忍が死亡した時点である。ところが、阿忍領の再配分の必要が生まれたためか、阿忍と兼弘の対立が生じ、阿忍は伊甘郷を悔い返した。

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