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2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏7

 従来は、康永三年二月二五日に上野頼兼が、尼光阿跡の須古(子)村内名田畠が覚猷庵主によって押妨されているとの熊若丸の訴えを受けて、覚猷の違乱を止めて熊若丸に打渡すよう、大森左衛門二郎に命じている。関連文書である年未詳一一月一三日益田惣領兼世書状によると、助つぼねに預けられていた光阿跡の須子手継文書が覚猷方に渡され、これを根拠に覚猷が押妨したのに対して、熊若丸の軍忠を確認した上で熊若丸に文書を渡すべきだと返事している。文書の改編は熊若方の権利の正当性を裏付けるためのものであった。
 光阿は下俣賀氏初代円戒の妻で、夫の死後も後家として上俣賀氏との裁判を行っているが、熊若丸が光阿の孫だと解釈すれば、熊若丸の要求の背景はよくわかる。これが、当初、上俣賀氏とした致義を下俣賀氏であると変更した根拠であった。ただし、文書を改編したように、光阿と熊若丸の関係(通説では祖母と孫)を直接示す史料はない。所持しなかったため改変したものであろう。建武二年時点の光阿の後継者は前述の尼妙戒(「円戒」の子ヵ。『概報』所収の系図では上俣賀氏致俊の妻とされるが根拠不明)であり、その所領俣賀・横田両村に対して又三郎致義が濫妨を働いていた。致義は下俣賀氏惣領ではなく上俣賀氏であるか、または下俣賀氏の庶子と考えざるを得ない。「三郎」であることからしても上俣賀氏とすべきであるが、その一方では下俣賀氏領の取り込みを図っていた。両家の間で婚姻関係が結ばれており、致義の母が下俣賀氏の女性であった可能性もある。そうすると、なんらかの理由で闕所となった須子村に対して、熊若丸が幕府に安堵を求め、幕府・守護も御方として軍忠を積む熊若丸の要求を認めることはあるのではないか。すでに述べたように、熊若丸=内田左衛門三郎致治は、反幕府方が優勢となった観応の擾乱時にも幕府方であり続けている。なお、須子村田畠が光阿領となったのは、光阿が夫円戒から譲られたものではなく、光阿が須子を支配する一族の出であったからであろう。

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