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2019年1月25日 (金)

俣賀村と俣賀氏2

 俣賀・横田村一分地頭致直と内田氏惣領地頭朝員との間の山河畠をめぐる裁判で、朝員側は致直が主張する山河は一族寄合とする事を記した譲状の奥書は、俣賀氏初代の致義の母で、嫡子致員にとっては継母である女性(後家であった)が執筆者筑前房を語らって後で書き加えたものであると主張した。ところが朝員が所帯する嫡子致員宛の譲状にも同様の奥書があったため、その主張は認められなかった。ここから俣賀致義は晩年(承久の乱後)の宗茂とその後室との間に生まれた子で、嫡子致員の異母弟であることが明らかである。
 嘉禎二年六月に宗茂が譲状を作成しているが、弥益丸(宗重)の誕生を受けて新たに作成し直したものであろう。内田氏の本拠とした遠江国内田庄下郷よりはるかに広範囲に及ぶ所領であり、内田氏惣領も両国を行き来して支配にあたったと思われるが、現地に常住する庶子として俣賀氏が誕生した。俣賀村のみならず、中心となる横田村の一部(横田下村)を譲ったのもそのためであろう。俣賀村は豊田郷成立以前は美濃郡内であった可能性が高いが、豊田郷内に含まれたことでその性格は大きく変化した。豊田郷は中心である横田村(中豊田)が吉賀郡内であったため、郷全体が吉賀郡内とされた。豊田郷内に「大境」という地名が残っているが、大境以北は美濃郡安富郷であった。
 宗茂は晩年の子致義を重視し、譲状作成直後に幕府の下知状をもらうと、その後は遠江国は嫡子致員に任せ、石見国内で居住したと考えられる。宗茂の譲状を安堵した幕府文書は三通残されている。嫡子致員に内田庄下郷を安堵した文書は遠江守護でもあった連署北条時房が単独で発給している。これに対して、致員への石見国所領の譲与と致義への譲与は将軍家政所下文(時房は別当として署判)で安堵されている。前者には「亡父」とあるが後者二通には「父」とのみあり、且つ致義宛のみが原本であることからして「父」が正しいとすべきである。
 内田庄下郷の安堵状は守護時房と内田氏の関係の深さを物語っている。致員こそ任官せず三郎のままであったが、その子致直・致親は左衛門尉、致員の弟致義は兵衛尉に任官している。致義は兄致員よりも甥である致直・致親と年齢が近かったと思われる。

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