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2019年1月26日 (土)

一五世紀後半の上黒谷2

 従来は、毛利博物館蔵文書の諸家文書中の、同様に宛所の苗字の部分が破れている前後の文書が小早川氏宛であるので、この文書も小早川美作守宛とみられてきた(ただし前述のように破れた部分は一字が有力で三字の可能性は全くない)。調べてみると、小早川氏領の中に「黒谷」という地名が確認できた。
 内容に戻ると、上黒谷土民錯乱之儀があり、領主から名田職を没収されたようである。これに対して、豊田豊熊丸、領家右近将監、黒谷周防守の三名が名田職を再度仰せ付けられた上は、土民に懈怠があった場合は領主に子細を申し上げて成敗することと、自らも段銭と公田役について無沙汰しないことを誓い、それを披露してもらうことを美作守に求めている。
 上黒谷は益田氏と吉見氏の係争地であるが、大内氏のもとで益田氏が支配を認められていた。黒谷で不慮の儀が出来した場合や守護方近辺から取懸かりがあった際には領主の扶持を得て馳走することを述べており、三名は大内氏と益田氏のもとで上黒谷の支配に当たっている益田氏の家臣と思われる。守護方や吉見氏の働きかけにより支配者が交替したことに伴うものではなさそうである。
 石見国の戦国史の文書をみているものであれば、これが長野庄内上黒谷と横山城に関する史料であることはすぐに気づくであろうが、偶々宛所の人物について根拠なき小早川敬平との注記があったので見過ごされてきたものである。萩閥をみていると十分な根拠がないままに、時期や人名を比定している例にしばしば出くわす。これが不明とされていれば、自ら検討し気づく人は多いと思われる。なぜこんな余計なお世話をするのか、あきれてしまう。確認してみると、小早川美作守敬平は明応八年四月に死亡しており、その嫡子扶平も美作守に該当せず、山口県史の関係者が気づかないのも不可思議である。
付記:当初の黒谷因幡守を古代文化センター紀要二八号の論考により周防守に修正した。

 

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