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2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏6

 次いで上島氏は観応二年からは「内田左衛門三郎致弘」が登場し、熊若丸のこととして間違いないと述べる。「内田左衛門三郎」はそれ以前から内田氏惣領致景の嫡子致世が内田家文書にみえており、これと俣賀家文書の「内田左衛門三郎」を混同しなかった点は評価すべきである。ところが内田(俣賀)左衛門三郎を致弘と解釈したのはいただけない。とはいえ、大山氏以来の研究では、石見国大将上野頼兼を分析した水野圭士氏「南北朝前期「大将軍」上野頼兼の位置付け」(日本歴史789号、二〇一四.二)を含めて、ブログ主以外のすべての人が致弘と解釈している。『中世益田・益田氏関係史料集』では当方は系図を担当しており、文書については担当者中司氏が西田友広氏の助言を受けつつ編集していた。参考として途中段階の文書データをいただいたところ、内田家文書と俣賀家文書の「内田左衛門三郎」が混同されていたため、根拠を述べて訂正をお願いした。混同は解消したが、俣賀左衛門三郎については致弘との注が付けられた。従来は名前は不詳であったが、久留島氏を代表とする科研報告書で発掘された文書により、「致治」であることが明白になったにも関わらずである。致義・致治父子が上俣賀氏であるのに対して致弘は下俣賀氏である。
 話を渡邊氏の論文に戻すと、注の中で俣賀三郎致義と俣賀掃部左衛門尉致義を別人とし、熊若丸の父致義が建武四年までに死亡したため、致義の兄弟春若丸が「掃部左衛門尉致義」として活動し、熊若丸はその養子となったとの、どうみても苦しい解釈を提示される。あまりにも文書を解釈する際の柔軟性に欠けており、致義が南朝方であったと解釈すればすむ事である。渡邊氏の柔軟性の欠如は長野庄内須子村に関する史料の解釈でもみられる。暦応三年三月二九日上野頼兼書下により、内田掃部左衛門尉に対して、石見国須子村田屋敷の知行が安堵されていた。これを本来「俣賀」と記されていたものが摺消され「須子」に訂正されたことが、今回の歴博の調査により明らかにされた。

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