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2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏8

 渡邊氏は下俣賀氏の拠点として最も重要なのは須子村田屋敷であるとされた。氏の理解が、論文の要旨に述べられているうように、惣領上俣賀氏が内陸部を拠点としたのに対して、下俣賀氏は山野用益権とともに河川流通に関与したとしている。そこから下俣賀氏は庶流ながらも俣賀氏一族内では優越した存在だったとまで述べている。最終的に下俣賀氏が存続したとの理解もその背景にあろう。問題はこの説に根拠があるかである。例えば、須子は長野庄内吉田郷との関わりが深い所領であるが、俣賀家文書として残っているのは前述の三点のみであり、須子は下俣賀氏が安定的に確保した所領ではない。『概報』の地図「1、長野庄の領主拠点を探る」で二つの俣賀氏の勢力圏に角井や須子を含めているのは不正確である。
 氏は俣賀村は谷田を貫通する中道を堺に分割されたとしたが、本来の大山氏の説が破綻した段階ではゼロベースで考える必要があるのに、中道は内田氏惣領と庶子俣賀氏の分割相続では横田村で適用され、次世代の俣賀氏内部の分割相続では俣賀谷でも適用されたと解釈した。ただ、これを地図上でみると、大山・渡邊両氏の説く「中道」の南東側よりも北西側が田畠では圧倒的に恵まれており、且つ、下俣賀庄となった梅月は道の南東側にあり、ありえない説とせざるを得ない。田数等は同規模でも権限において上俣賀氏が優越した形で譲られたはずである。
 横田村をめぐる分割で、大山氏の主張した中道を採用した渡邊氏の説にも疑問がある。これでは横田上村が存在しないことになってしまう。内田氏惣領家は市原を支配していたが、『概報』では横田村の北東側地域に比定されている。横田村を分けた中道とは大山氏や渡邊氏の説くルートではなく、横田の町を東西に貫くもので、現在の上市、中市、下市がそれぞれ横田上村、中村、下村に相当している。この中の横田下村が上俣賀氏と下俣賀氏で分割されており、河川流通に関与していたのは上俣賀氏も同様であった。これに対して惣領家は中豊田(横田中村と向横田)と道辺(上野、家下、山本、大境)、さらには市原、下角、篠原、大嶽を支配した。ところが『概報』が地図「1、長野庄の領主拠点を探る」で示した範囲は、安富村を除く明治の豊田村に等しいという大山氏の誤った理解に基づき作成されている。そこには向横田、下角、篠原、大嶽(大滝)が含まれていない。
 とりあえず、渡邊氏の論文に触発されて再検討してみた。報告書では内田氏支配領域を含めて論ぜられるようなので、期待したい。

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