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2019年1月27日 (日)

白上村地頭委文氏4

 委文宗景の所領に白上村半分(地頭職)だけでなく、飯多郷内田畠在家地頭職が含まれていたことの説明が不十分であったので、補足する。田畠在家地頭職は飯多郷地頭職を持つ人物からその一部を譲られていたことを意味する。長野庄内横田村や俣賀村でも田畠在家地頭職がみられた。飯多郷一分地頭職と表記されていないので、郷内のある村ではなく、より小規模な権益であろう。飯多郷地頭職は貞応二年に益田兼季が幕府から代々の支配を認めれており、その惣領地頭職は兼季からその嫡子兼時へ、兼時からその庶子兼久に譲られたことが確認できる(兼久は兄兼長の死により益田氏惣領となる)。これに対して長野庄惣政所であった虫追氏が有したのは地頭職とは別の権益である。長野庄内の各郷に権益を有したのであろうが、その最大のものが飯多郷内虫追にあったため、「虫追」を苗字とした。
 上記の点を踏まえるならば、飯多郷田畠在家地頭職を有したのは、兼盛の妻=宗景の母であることとなる。祖母白上尼が益田氏出身で、母が委文氏という可能性もあるが、白上郷地頭職を有したのが東国御家人田村氏であることを考えると、祖母が東国御家人委文氏の出身で、母が益田氏出身という可能性の方が高いと思われる。渡邊氏は白上村の内で後に独立して新白上と呼ばれる地域(白上川の上流であろう)を虫追氏が領有していたからとされたが、虫追氏の権益は地頭職ではなく、それとは独立した惣政所に伴うもの(他の文書では郷務とも表現されている)であり、前に述べたように、大家庄でも地頭職に対して惣政所職があり、それぞれ別の一族が相伝していた。
 以上、白上村半分地頭職を有した委文氏について補足した。

 

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