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2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏5

 これまで分析する上での最大の難点は文書に登場する三ヶ所の狩倉の所在地と両家の領地を確定するだけの地名に関する情報が不足していたことである。佐倉歴博の共同研究でその課題が克服されることを期待したが、一歩前進程度である。最終報告書に期待したいが、どうであろうか。今回、下俣賀氏が惣領内田氏から認められた狩倉は上俣賀氏を含めた俣賀氏全体に関わるものであると考えたことで、ようやく理解が深まった。
 俣賀氏初代の致義の子兵衛三郎致直が上俣賀氏初代で、兵衛五郎円戒が下俣賀氏の初代で、両者の所領規模はほぼ同規模であるが、内田氏惣領と同じく「三郎」を仮名とする致直が俣賀氏惣領であった。それゆえに南北朝初期の内田三郎致義も上俣賀氏と考えたのである。建武二年五月九日には横田郷俣賀・横田両村地頭尼妙戒が致義を訴えことを受け、沙弥了忍が俣賀又三郎(致義)に出頭するよう伝えているが、妙戒が下俣賀氏であることは明白である。ただし、微妙な問題があり、後に致義もまた下俣賀氏であるとの解釈に変更したが、今回気づいた点を踏まえれば、やはり上俣賀氏とすべきである。
 建武四年正月一一日に守護上野頼兼が俣賀熊若丸に父俣賀三郎致義跡を預けている。この致義について上島氏が理解不能な説を提示されていたが、渡邊氏はここから致義が死亡した可能性が高いと述べられた。これもまた驚かされた。給人未補の間預けたと記されているが、致義が譲状を作成する前に死亡したため給人未補であったと考えたのであろうか。そうではなく、父致義は健在ではあるが、長門探題攻撃以来の高津氏(建武政権下の石見守護)との関係で、南朝方として畿内で活動していたと解釈すればすむことである。当然、幕府から闕所とされ、幕府方の国人に与えられることが予想されたが、幕府方として活動していた熊若丸と代官が、他の国人領となる前に預けられたのである。父致義は南朝方から掃部左衛門尉に補任されていたが、度重なる幕府からの軍勢催促の結果、幕府方となり、熊若丸と行動を共としたが、建武四年九月には両者が冒頭の名前を除けば同文の軍忠状を上野頼兼に提出し、承判を受けている。二通の文書は所蔵する花園大学のHPで写真を見ることができるが、科学捜査研究所の分析に委ねなくとも同筆であることがわかる。上島氏が致義は俣賀氏惣領で、熊若丸を庶子家であるとの根拠不明の説を文書の解説で述べている。掃部左衛門尉致義は暦応三年八月頃討死し、熊若丸が九月一七日に「親父俣賀掃部左衛門尉討死」として本領を安堵されているから、致義の討死とともに惣領家を相続したものと考えられるとの珍解説を述べている。

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