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2019年1月25日 (金)

俣賀村の分割

 承久の乱後に入部してきた内田致義が開発の拠点とした場所については報告書や渡邊氏が指摘する本俣賀村「土井ノ内」で問題ない。前述のように院政期の俣賀村の田数は六町程度であり、周辺地域と比べて開発が遅れていた。得屋郷(二〇町二段小)については多田村の谷戸部分よりも稲積山と益田川の間の地域(吉田上村)が中心であったと思われる。近世初頭の多田村の石高は一七七石しかない。俣賀村の北側にあった角井が院政期には八町五段半と俣賀村全体を上回っており、川の下流域部ながら開発が進んでいたことになる。
 致義は俣賀村を嫡子致直と庶子円戒、並びに蓮念に譲った。これ以外に女子分もあったであろうが、小規模であったと思われる。円戒が譲られたのは俣賀川西岸部分と梅月谷であった。その北側では角井郷に接していた。円戒(下俣賀氏)の館としては梅月谷の入り口北側の「土井」が有力である。円戒が空昭から三ヶ所の狩倉を打ち渡されたが、西田平は角井堺小中倉を北限とし、安富へ向かう道を西限としている。介中尾は「土井」背後の丘陵状であった西限が梅月谷で北限は里とある。俣賀から横田下小山までの狩倉は、横田下村の関係で認められたものであろう。同時期に致直(上俣賀氏)も狩倉を打ち渡されたとは確実であるが、それが下俣賀氏の三ヶ所と全く同じと前に述べた点は撤回する。その後、円戒の後家光阿が介中尾の狩倉の上俣賀氏分を浸食したため、上俣賀氏致直の子致俊が幕府に訴え、最終的には嘉暦二年に和与が成立した。近世初頭の本俣賀村が二七七石であるのに対して梅月村は二九二石で、枝谷である梅月谷の方が開発は進んでいた。ただし、東国御家人入部以前の原俣賀氏の本拠地であった可能性が高く、そこを内田俣賀氏氏が
掌握し、庶子円戒に分割して譲ったのだろう。近世の左ヶ山村(一〇二石)も上俣賀氏領であり、これを加えれば下俣賀氏領を上回っている。
 残るは小俣賀であるが、嫡子致直の舎兄蓮念に譲られたが故に、俣賀田畠在家地頭職(年々作物以下事)をめぐる対立が生まれ、正応三年一〇月に和与が成立し、永仁三年五月に幕府の安堵の下知状を得た。近世初頭の石高は一七二石である。その背景は不明であるが、鎌倉末期には一時的に惣領内田氏が支配していた。
 報告書、渡邊氏論文を踏まえ、現段階では以上のように考えた。

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