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2019年1月29日 (火)

大家庄領家藤原頼輔

 皇嘉門院女房となり九条兼実との間に良平を産んだ女性の父藤原頼輔(大家庄領家)について、同姓同名の別人に比定していたので訂正する。以前は藤原忠教の子難波頼輔(刑部卿、文化人でとりわけ蹴鞠の達人であった)という前提で述べていた。忠教は待賢門院政所別当中の中心で、その子教長は保元の乱では崇德・頼長方となっている。また教智阿闍梨は崇德天皇の御願寺成勝寺に摂津国難波庄を寄進している。忠教自身も、佐伯智宏氏による根拠なき判断で、成勝寺領の寄進者とされたが、藤原顕頼の誤りであることはすでに述べた。
 正解は藤原顕輔の子頼輔であった。顕輔は長実・家保の兄弟で、院近臣顕季の子である。鳥羽院の寵臣家成(家保の子)と寵姫美福門院(長実)の従兄弟になる。白河院政最晩年の大治二年一月に讒言により顕輔は白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、院の死の翌大治五年に関白藤原忠通の娘聖子が崇德院の女御、さらには中宮となると、中宮亮に補任されて復帰を果たした。保延三年には従三位公卿となり、保元の乱の前年の久寿二年五月に死亡。この間、崇德上皇の命により勅撰和歌集『詞花和歌集』を完成させている。その兄弟重家は当初は待賢門院との関係を持ったが、その死後は美福門院、さらには二条天皇との関係を深めている。
 九条兼実の妻となった女性については、頼輔の娘とする系図と、父顕輔の娘とする系図がある。顕輔が中宮聖子の中宮亮となったことで、異母弟でありながら皇嘉門院領を譲られた兼実と娘の結婚が実現した。頼輔は公卿とはならず、その子基輔(これも院政期の伯耆国司では難波頼輔の子としていたが誤りである)とは九条兼実の家司で、国主兼実のもとで仁安元年(一一六六)以降、上総守・美作守・伯耆守・安芸守にも補任されている(これを見る限り、兼実の妻となったのは世代的に頼輔の娘であろう)。大家庄が九条兼実領となったのに対して、同じく皇嘉門院領であった益田庄は、兼実の弟兼房に譲られた。
 大家庄、益田庄と長野庄はいずれも源雅国・国保父子と関係を有したが、その深さは長野庄(惣政所が南北朝期でも「国」をその名に付けている)、大家庄(鎌倉初期の惣公文は国知であった)、益田庄(益田氏の祖は国兼であったが、その子孫は国保の後任の石見守源季兼にちなんだ「兼」を付ける)の順番であった。また長野庄は皇室領から崇德院除霊のために粟田宮領となり、大家、益田庄は摂関家領となった。

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