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2019年1月27日 (日)

長野庄内郷務について

 新出史料である延応二年四月二六日六波羅探題北条重時書状は、長野庄内高津郷務に関する雑掌側の訴えを受けて幕府評定衆斎藤長定に出されたものである。解説に指摘されているように、宛所の斎藤長定(浄円)は『吾妻鏡』には前年一〇月一一日に四三才で死亡したことが記されているが、編纂時に錯乱があったのだろう。
 雑掌側は前年七月一一日関東下知状を根拠に、地頭の権限が及ばない高津郷の津湊等に地頭兵衛尉盛憲が関与していることを訴えたと思われる。そこで盛憲側に尋ねたところ、過去の代々御下知案を副えて反論する内容の陳状を提出したようである。これをうけて重時が「何様可候乎」と長定に述べており、地頭側の支証の内容は地頭が郷務(津湊)の一部に権限を認められているというものであったと思われる。康永三年八月一七日某(領家ヵ)袖判書下(益田家文書八二)により、長野庄惣政所虫追政国が飯多・市原・高津の郷務に関する権益と給分を安堵されている。虫追氏一族で庄内の郷務に関する権益を分割していたと思われる。
 長野庄領家の発給文書としては、袖判形式(それを奏者が伝えるものと袖判のみのものがある)のものと、文書の奥上判、ないしは日下別行署判のものがある。袖判の主が領家であるのに対して後者は預所(所務雑掌)の発給文書であろう。預所でその名がわかるのは、応安七年七月二八日卜部仲光奉書のみである。承久三年月日未詳散位卜部宿祢下文も預所卜部氏が出したものである。そこでは御年貢・所当公事とともに田率板・在家役・津河関等を沙汰する職を補任しているが、「右人」の前は削除されている。惣政所宛の文書であったと思われる。領家側の主張では地頭は郷務に関われないというものであるが、地頭の前身は領家が補任した郷司であり、関わっていた可能性が高い。それが補任権が自らの手元から離れたので、関われないと主張しているのだろう。貞応二年五月二五日の関東下知状も、領家側の預所である掃部助仲広が益田兼季の地位が正当なものではなく、ましてや地頭ではない、として訴えたことに対するものであった。これに対して幕府が兼季の地位は三代知行であり、地頭であるとする成敗も何度も受けていることを認めたものである。
 一二世紀半ばの石見守(待賢門院分国)卜部兼仲の子孫が継承したのは領家職そのものではなく、預所職であろう。長野庄は粟田宮領であるが、その神主は同じ卜部氏ではあるが兼仲流とは別の卜部氏が相続している。高津郷地頭については、兵衛尉に任官していることが注目されるが、「代々御下知」を所持していたことからすると、東国御家人ではなく、庄園成立期以来の高津郷司の子孫であろう。高津氏については博多日記に石見国から長門探題攻撃の中心となった武士として「高津道性」と「吉見氏」がみえることから、高津氏は吉見氏一族であるとの説が唱えられたが、高津氏は益田氏と同様、鎌倉期以前から石見国で活動してきた国御家人である。道性と長幸も同一人物とされたことがあったが、親子である可能性が高い。

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