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2019年1月22日 (火)

藤原尹経と資盛

 表題の両者については「一二世紀前半の石見守」で述べたが、補足する。尹経は元永元年正月一八日に阿波守に補任されたが、初の受領であり阿波国は白河院の分国であった。同じ日に叙爵(従五位下)されているが、父尹通が鳥羽殿の修理を行った功による。九月には仁和寺宮領阿波国篠田庄に関する国司の免判に記された面積が問題となっているが、尹経は幼少であったと思われ、父尹通が関係文書を進めている。阿波国は院分国であり、且つ尹通が知行国主であった。『国司一覧』ではその後は同年九月五日の現任が確認できることしか情報が掲載されていないが、翌二年一一月二三日には、阿波守尹経に賀茂下社正殿廻廊中門等を造進すべきことが命じられ、同月二八日には父尹通は中宮大進に補任されている(『中右記』)。大治四年八月二八日に蔵人に補任された式部丞有盛について「故院一臈尹通也」とあるように、尹通は白河院の近臣であった。天治二年一月一五日に院司源有賢が三河守から阿波守に遷任し、藤原為忠が安芸守から三河守に遷任している。直接的史料を欠くが、この時点で尹経が阿波守から安芸守に遷任したと思われる。為忠の前任の安芸守が父尹通であった。保安五年三月の中宮璋子の出産雑事で饗の上達部分二〇前を阿波守である尹経が負担している。
 大治二年三月七日には法勝寺薬師堂で御仏供養が行われているが、丈六の六字明王七体を造進したのは石見守資盛であった。七月一七日の待賢門院の御産雑事で饗の庁分三〇前を石見守資盛が担当している。次いで、同三年一二月に尹経と相博して安芸守に遷任し、大治四年七月七日、死亡直前の白河院のもとに近侍していたのは、両院(鳥羽・待賢門院)と藤原為忠の妻で院の女房であったなつとも、同じく賀茂神主重助の娘いはひを、大夫尉資遠、安芸守資盛等であった(『長秋記』)。
以上のように資盛もまた院近臣であったが、白河院没後の大治五年一二月の待賢門院の熊野詣でには侍として卜部兼仲とともに供奉し、翌天承一年七月九日に白河院の骨を鳥羽御塔に渡す際にも北面の参加者として「安芸守資盛」がみえる。
 院近臣として国守となったのか、あるいは院分国の国守に補任されたのかの区別は難しいが、兼仲の前任の石見守であり藤原資盛と尹経が白河院と深い関係にあったことは間違いなく、尹経は院分国阿波の国守であった。尹経の安芸守の前任者藤原為忠もまた前述のうようにその妻が院女房として白河の臨終に立ち会っていた。
卜部兼仲が八月末に石見守に補任された背景として、七月七日の白河院の死亡があったことは間違いない。白河亡き後、石見国は待賢門院の分国とされ、白河院の近臣の息子尹経に代わって女院の侍であった兼仲が国守に起用され、世間を驚かせた。

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