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2019年1月

2019年1月29日 (火)

大家庄領家藤原頼輔

 皇嘉門院女房となり九条兼実との間に良平を産んだ女性の父藤原頼輔(大家庄領家)について、同姓同名の別人に比定していたので訂正する。以前は藤原忠教の子難波頼輔(刑部卿、文化人でとりわけ蹴鞠の達人であった)という前提で述べていた。忠教は待賢門院政所別当中の中心で、その子教長は保元の乱では崇德・頼長方となっている。また教智阿闍梨は崇德天皇の御願寺成勝寺に摂津国難波庄を寄進している。忠教自身も、佐伯智宏氏による根拠なき判断で、成勝寺領の寄進者とされたが、藤原顕頼の誤りであることはすでに述べた。
 正解は藤原顕輔の子頼輔であった。顕輔は長実・家保の兄弟で、院近臣顕季の子である。鳥羽院の寵臣家成(家保の子)と寵姫美福門院(長実)の従兄弟になる。白河院政最晩年の大治二年一月に讒言により顕輔は白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、院の死の翌大治五年に関白藤原忠通の娘聖子が崇德院の女御、さらには中宮となると、中宮亮に補任されて復帰を果たした。保延三年には従三位公卿となり、保元の乱の前年の久寿二年五月に死亡。この間、崇德上皇の命により勅撰和歌集『詞花和歌集』を完成させている。その兄弟重家は当初は待賢門院との関係を持ったが、その死後は美福門院、さらには二条天皇との関係を深めている。
 九条兼実の妻となった女性については、頼輔の娘とする系図と、父顕輔の娘とする系図がある。顕輔が中宮聖子の中宮亮となったことで、異母弟でありながら皇嘉門院領を譲られた兼実と娘の結婚が実現した。頼輔は公卿とはならず、その子基輔(これも院政期の伯耆国司では難波頼輔の子としていたが誤りである)とは九条兼実の家司で、国主兼実のもとで仁安元年(一一六六)以降、上総守・美作守・伯耆守・安芸守にも補任されている(これを見る限り、兼実の妻となったのは世代的に頼輔の娘であろう)。大家庄が九条兼実領となったのに対して、同じく皇嘉門院領であった益田庄は、兼実の弟兼房に譲られた。
 大家庄、益田庄と長野庄はいずれも源雅国・国保父子と関係を有したが、その深さは長野庄(惣政所が南北朝期でも「国」をその名に付けている)、大家庄(鎌倉初期の惣公文は国知であった)、益田庄(益田氏の祖は国兼であったが、その子孫は国保の後任の石見守源季兼にちなんだ「兼」を付ける)の順番であった。また長野庄は皇室領から崇德院除霊のために粟田宮領となり、大家、益田庄は摂関家領となった。

2019年1月28日 (月)

続国御家人の地頭化3

 承久三年一〇月 日関東下知状により、石見国大家庄への守護所使入部が停止されているが、この場合は将軍家度々御成敗の旨に任せとあり、承久の乱以前から認められていた。貞和七年三月二七日足利直冬下文により、長野庄内高津郷への守護所使入部が停止されている。その根拠となったのは高津長幸が提出した建保五年一二月三日関東下文であった。この下文は高津郷のみならず長野庄全体に対して出されたものであろう。大家庄では各所領の地頭職に対して、全体を統括する惣政所職が置かれ、領家から補任された源氏に対して幕府が御家人であるとしてこれを安堵する文書を出していた。長野庄惣政所源氏については、幕府による安堵状は残っていないが、大家庄と同様であった可能性がある。長野庄の場合も個々の地頭の保護のために守護所使不入を認めたというよりも庄園領主に対する配慮であろう。
 益田庄については、正平一四年五月二日に足利直冬から兼見の本領に対する守護使入部が、先例に任せて認められ、幕府帰参後も石見国守護に補任された大内氏から認められている。兼見はその永徳三年八月の置文で、守護使不入の根拠として近年証状とともに元亨御下知を上げている。後者については、元亨年間に益田庄に対して出されたものか、あるいは元亨年間の益田氏惣領兼弘(道忍)に対するものかが問題となるが、益田庄ならば鎌倉初期以来だと思われ、後者である可能性が高い。
 益田庄と大家庄は仁平三年閏一二月に家司源季兼を石見守として藤原忠通が知行国主の座を取り戻して以降に庄園として成立し、忠通の娘で崇德天皇の中宮となった皇嘉門院領となった。それに対して、長野庄の成立は待賢門院の侍卜部兼仲が石見国司となった大治四年から藤原忠実の家司(その娘高陽院の院司でもあった)源雅国の子国保が石見守であった仁平三年末までの間に成立した。長野庄が隣接する益田庄に先行して成立したのである。この三庄に共通するのは待賢門院の嫡子崇德天皇との関係である。頼朝が崇德院に関係する寺院や人物(崇德の子重仁の母)の庄園を丁重に扱ったことはすでにみた通りである。出雲国の園山庄と長海庄も待賢門院との関係が深く、石見国久永庄と出雲国加茂庄と安来庄は頼朝が信仰する上下賀茂神社の庄園であった。
 出雲国では庄園が問題となり、石見国では公領が課題であるが、いずれも承久の乱の結果、東国御家人が新恩地頭に補任された所領以外の国御家人領でも地頭に切り替えられたという仮説が成り立つ可能性は低いのではないか。それよりも、後鳥羽院と将軍実朝の緊密な関係を背景に承元年間以降に国御家人も地頭に切り替えられたとの説の方が可能性は高い。ただそれには知行国主などその国の事情があり、一律ではない。但馬国や若狭国のように承久の乱後も国御家人が地頭に切り替えられていない例が目立つ国もある。

続国御家人の地頭化2

 石見国については、益田兼季が貞応二年に掃部助仲広との裁判で、長野庄内飯多郷地頭として度々御成敗状を賜った事を認められており、承久の乱以前から地頭に補任されていたことは確実である。苗字の地である益田庄については史料を欠いているが、兼季の庶弟兼定もまた貞応二年に本知行相違無しとして大家庄内福光村地頭職に補任されており、承久の乱以前に地頭に補任されていたことは確実である。同じ兼定領である周布郷、鳥居郷、安富郷(別符)については兼季から嫡子兼時に譲られ、兼時がその所領の中から舎弟兼定に譲ったものである。安富郷は飯多郷と同様に長野庄に属しており、乱以前から兼季が地頭職に補任されていたものであろう。周布、鳥居郷については史料を欠くが、承久の乱の影響で地頭に切り替えられる可能性は低いと思われ、やはり乱以前のある時点で郷司等から地頭に切り替えられたのではないか。
 寛元二年六月三日六波羅下知状によると、上賀茂社領邑智郡久永庄について、上賀茂社から守護所使入部と高野山流人雑事について訴えがあった。承元二年一〇月一五日関東下知状を根拠に、文治二年一〇月に頼朝が上賀茂神社に久永保を寄進して以降、社家進止の地となり、守護所の沙汰が停止されていることと、大番役の勤仕については先例に任せて対応するが、その他の課役は免除されていることを主張し、幕府がその要求を認めている。久永保が平家没官領として頼朝に与えられ、次いで上賀茂神社からの要求により、頼朝から寄進されたが、東国御家人が補任された地頭はそのままとされたことがわかる。
 守護所使入部の停止といえば、これまでみてきた出雲・石見の所領でも見ることができる(史料は欠くが、久永庄と同様、頼朝により寄進された安来庄、加茂庄も守護所使停止であった可能性は高い)。
 貞応二年一一月二日関東下知状により、薗山新庄への守護所使入部が停止されている。刃傷・殺害人が出来した場合は、地頭古庄高道の沙汰として事実確認の上召し出すように命じている。以前は、出雲国守護所が隣接する神門郡塩冶郷にあったための措置と思っていたが、これまで地頭が置かれていなかった園山庄(本庄も)は当然守護所使不入であった。それが地頭が置かれたことで、この命令が出されたものであろう。頼朝以来の幕府と領家吉田家の関係が背景にあった(幕府が配慮)。

 

続国御家人の地頭化1

 前に示した仮説では、出雲国においては承元年間に公領の地頭化がなされたことを述べた。これに対して庄園については、不明としたがどうであろうか。承久の乱以前に庄園の地頭としてみえるものはすべて東国御家人かというと、赤穴氏の場合が問題となる。赤穴庄(別宮)の寿永元年の下司として紀宗実がみえ、文永八年の地頭は赤穴太郎である。さらに嘉暦元年八月一二日赤穴八幡宮神像胎内銘には紀季実がみえる。赤穴庄の庄官紀氏は治承・寿永の乱、承久の乱の影響をさほど受けずにその地位を維持したと思われるが、文永八年時点では地頭であったことは確実である。いつ、どのような理由で下司から地頭に変化したのであろうか。伯耆国山田別宮の場合、山田兵衛尉秀真が下司職を石清水八幡宮から改補された事が不当だとして幕府に訴えたが、文永一一年六月一九日の関東下知状は、庄官は地頭職ではなく下司職であり、本所進止である事を認めて、秀真の訴えを退けている。
 待賢門院の分国であったことと関連が深い円勝寺領島根郡長海庄には一三世紀初頭の建永年間から建暦二年(一二〇六~一二一二)には地頭某員綱が補任されており、その非法を領家側が幕府に訴えていたことがわかる。幕府は地頭の廃止ではなく、交替で対応しようとしている。蓮華王院領加賀・持田庄地頭に補任された土屋氏同様、員数は東国御家人であろうか。
 もう一つの事例である神門郡神西(薗山)庄については、承久の乱で「神西庄司太郎」が討たれており、地頭への変更はなされていなかった。神西庄は寿永元年七月の時点で幕府と朝廷との連絡に当たっていた吉田経房が領家であったが、本家については明らかでない。祖父為隆が子憲方を国守として出雲国知行国主であった保安二年一二月から大治三年一二月の時期に、為隆を領家として立券された可能性が高い。
 待賢門院と鳥羽院の第二皇子通仁親王の出産時に出雲守憲方が御等身六字天一躰を造進しているが、実質的には父為隆によるもので、これにより憲方は出雲守を重任した。憲方が遷任した周防守在任中の大治五年九月為隆は死亡しているが、憲方は保延元年には待賢門院の御願寺法金剛院の東新造御所を増進している。薗山庄領家職は為隆の死後は嫡子光房(経房父、憲方兄)を経て経房が継承したと思われる。経房が上西門院のもとで頼朝の上司であったとの関係から、神西庄が例外的扱いを受けて地頭ではなく下司にままとされた可能性もある。文治二年七月には前司師兼の働きかけを受けた頼朝が、師兼を園山庄下司職に還補することを求めた経房宛の手紙を師兼に与えている。師兼は頼朝の妻の甥仁憲に祗候していた縁で頼朝に働きかけた。大原郡加茂庄では没官領として一旦置かれた地頭が廃止され、本所一円地とされているが、頼朝が上賀茂神社を信仰するゆえであった。同じく頼朝は没官領として得た能義郡安来郷を下賀茂神社に寄進している。

2019年1月27日 (日)

長野庄内郷務について

 新出史料である延応二年四月二六日六波羅探題北条重時書状は、長野庄内高津郷務に関する雑掌側の訴えを受けて幕府評定衆斎藤長定に出されたものである。解説に指摘されているように、宛所の斎藤長定(浄円)は『吾妻鏡』には前年一〇月一一日に四三才で死亡したことが記されているが、編纂時に錯乱があったのだろう。
 雑掌側は前年七月一一日関東下知状を根拠に、地頭の権限が及ばない高津郷の津湊等に地頭兵衛尉盛憲が関与していることを訴えたと思われる。そこで盛憲側に尋ねたところ、過去の代々御下知案を副えて反論する内容の陳状を提出したようである。これをうけて重時が「何様可候乎」と長定に述べており、地頭側の支証の内容は地頭が郷務(津湊)の一部に権限を認められているというものであったと思われる。康永三年八月一七日某(領家ヵ)袖判書下(益田家文書八二)により、長野庄惣政所虫追政国が飯多・市原・高津の郷務に関する権益と給分を安堵されている。虫追氏一族で庄内の郷務に関する権益を分割していたと思われる。
 長野庄領家の発給文書としては、袖判形式(それを奏者が伝えるものと袖判のみのものがある)のものと、文書の奥上判、ないしは日下別行署判のものがある。袖判の主が領家であるのに対して後者は預所(所務雑掌)の発給文書であろう。預所でその名がわかるのは、応安七年七月二八日卜部仲光奉書のみである。承久三年月日未詳散位卜部宿祢下文も預所卜部氏が出したものである。そこでは御年貢・所当公事とともに田率板・在家役・津河関等を沙汰する職を補任しているが、「右人」の前は削除されている。惣政所宛の文書であったと思われる。領家側の主張では地頭は郷務に関われないというものであるが、地頭の前身は領家が補任した郷司であり、関わっていた可能性が高い。それが補任権が自らの手元から離れたので、関われないと主張しているのだろう。貞応二年五月二五日の関東下知状も、領家側の預所である掃部助仲広が益田兼季の地位が正当なものではなく、ましてや地頭ではない、として訴えたことに対するものであった。これに対して幕府が兼季の地位は三代知行であり、地頭であるとする成敗も何度も受けていることを認めたものである。
 一二世紀半ばの石見守(待賢門院分国)卜部兼仲の子孫が継承したのは領家職そのものではなく、預所職であろう。長野庄は粟田宮領であるが、その神主は同じ卜部氏ではあるが兼仲流とは別の卜部氏が相続している。高津郷地頭については、兵衛尉に任官していることが注目されるが、「代々御下知」を所持していたことからすると、東国御家人ではなく、庄園成立期以来の高津郷司の子孫であろう。高津氏については博多日記に石見国から長門探題攻撃の中心となった武士として「高津道性」と「吉見氏」がみえることから、高津氏は吉見氏一族であるとの説が唱えられたが、高津氏は益田氏と同様、鎌倉期以前から石見国で活動してきた国御家人である。道性と長幸も同一人物とされたことがあったが、親子である可能性が高い。

白上村地頭委文氏4

 委文宗景の所領に白上村半分(地頭職)だけでなく、飯多郷内田畠在家地頭職が含まれていたことの説明が不十分であったので、補足する。田畠在家地頭職は飯多郷地頭職を持つ人物からその一部を譲られていたことを意味する。長野庄内横田村や俣賀村でも田畠在家地頭職がみられた。飯多郷一分地頭職と表記されていないので、郷内のある村ではなく、より小規模な権益であろう。飯多郷地頭職は貞応二年に益田兼季が幕府から代々の支配を認めれており、その惣領地頭職は兼季からその嫡子兼時へ、兼時からその庶子兼久に譲られたことが確認できる(兼久は兄兼長の死により益田氏惣領となる)。これに対して長野庄惣政所であった虫追氏が有したのは地頭職とは別の権益である。長野庄内の各郷に権益を有したのであろうが、その最大のものが飯多郷内虫追にあったため、「虫追」を苗字とした。
 上記の点を踏まえるならば、飯多郷田畠在家地頭職を有したのは、兼盛の妻=宗景の母であることとなる。祖母白上尼が益田氏出身で、母が委文氏という可能性もあるが、白上郷地頭職を有したのが東国御家人田村氏であることを考えると、祖母が東国御家人委文氏の出身で、母が益田氏出身という可能性の方が高いと思われる。渡邊氏は白上村の内で後に独立して新白上と呼ばれる地域(白上川の上流であろう)を虫追氏が領有していたからとされたが、虫追氏の権益は地頭職ではなく、それとは独立した惣政所に伴うもの(他の文書では郷務とも表現されている)であり、前に述べたように、大家庄でも地頭職に対して惣政所職があり、それぞれ別の一族が相伝していた。
 以上、白上村半分地頭職を有した委文氏について補足した。

 

2019年1月26日 (土)

一五世紀後半の上黒谷2

 従来は、毛利博物館蔵文書の諸家文書中の、同様に宛所の苗字の部分が破れている前後の文書が小早川氏宛であるので、この文書も小早川美作守宛とみられてきた(ただし前述のように破れた部分は一字が有力で三字の可能性は全くない)。調べてみると、小早川氏領の中に「黒谷」という地名が確認できた。
 内容に戻ると、上黒谷土民錯乱之儀があり、領主から名田職を没収されたようである。これに対して、豊田豊熊丸、領家右近将監、黒谷周防守の三名が名田職を再度仰せ付けられた上は、土民に懈怠があった場合は領主に子細を申し上げて成敗することと、自らも段銭と公田役について無沙汰しないことを誓い、それを披露してもらうことを美作守に求めている。
 上黒谷は益田氏と吉見氏の係争地であるが、大内氏のもとで益田氏が支配を認められていた。黒谷で不慮の儀が出来した場合や守護方近辺から取懸かりがあった際には領主の扶持を得て馳走することを述べており、三名は大内氏と益田氏のもとで上黒谷の支配に当たっている益田氏の家臣と思われる。守護方や吉見氏の働きかけにより支配者が交替したことに伴うものではなさそうである。
 石見国の戦国史の文書をみているものであれば、これが長野庄内上黒谷と横山城に関する史料であることはすぐに気づくであろうが、偶々宛所の人物について根拠なき小早川敬平との注記があったので見過ごされてきたものである。萩閥をみていると十分な根拠がないままに、時期や人名を比定している例にしばしば出くわす。これが不明とされていれば、自ら検討し気づく人は多いと思われる。なぜこんな余計なお世話をするのか、あきれてしまう。確認してみると、小早川美作守敬平は明応八年四月に死亡しており、その嫡子扶平も美作守に該当せず、山口県史の関係者が気づかないのも不可思議である。
付記:当初の黒谷因幡守を古代文化センター紀要二八号の論考により周防守に修正した。

 

一五世紀後半の上黒谷1

 偶々検索していて、記者発表資料のPDFに行き当たった。従来から知られていた古文書が石見国に関係するものであることがわかったという。『山口県史』史料編中世2に収録されているとのことで、早速去年の秋に購入した県史で確認してみた。最初にヒットしたものではしばらく待っても表示されなかったので、HTML版をみたが、画像が表示されずテキストのみであった。県史をみた後に再度開いたら、今度はPDF版がきちんと表示され、写真と解読文も確認できた。
 よく覚えていないが、表示ソフトを変えたのかもしれない。一応、①インターネットエクスプローラ、②エッジ、③クロームの3つを併用している。例えば編纂所の古記録テキストデータベースを開くと、関係文が表示される。その部分をワープロ上に複写すると差がある。もっとも利用しやすいのは、①+ワードで、A書式を維持、B書式を結合、Cテキストのみのいずれを選んでも良く、そのまま利用できる。これが②、③+ワードだとテキストのみで複写すると字と字の間にスペースが入ってしまう。これが一太郎でCを選ぶと、①③では字間にスペースが入り(③が大きい)、②では字間の改行マークが入ってしまう。同様の違いは、PDF上からテキストをコピーした場合も同じで、マイクロソフトが仕様を公開していないためであろう。
 話を戻すと、二度目にPDF版を見た際に、解読文の最初がおかしいなと思って写真と対比すると、「上黒谷依御扶持」から「依」が欠落していた。チェックから洩れたのだろう。それ以上に文書の解説文が気になった。「某美作守から上黒谷で領地をもらった」「この直前に上黒谷の支配者が替わった」という部分がしっくりこなかったのである。美作守は益田氏ないしは吉見氏一族と推測されますとあるが、一方なら交替ではなく、もう一方である場合のみ交替となるのではないか。また「美作守」については、大内氏の関係者もありうるのではないか。確定はできないが、この文書は永正4年のものである。その前と後の時期に大内氏から九州に派遣されている陶美作守がいる。有名な陶興房とは別人であるが、名前は不明である。写真をみる限り、破れた美作守の苗字の部分は一字である可能性が高い。

 

益田兼胤領の没収

 益田實氏所蔵新出史料の中に、正和五年二月二四日六波羅探題御教書がある。益田兼長後家阿忍が伊甘郷文書の返還を求め、幕府が東山道郷地頭道忍(解説では「寛忍」と読んだ上で道忍のことである可能性が高いとしているが、同文書中の「寛元二年」の「寛」とは明らかに字体が異なっており、一画目と二画目のバランスが良くないが「道」と読むことができる。この文書については写である可能性もある)に返還を命じたが拒否したとして、土屋氏に対して返還命令を道忍に再度伝えるよう命じている。阿忍は同年二月二一日には置文を作成するとともに、所領である弥富名を子孫に譲っている。伊甘郷については三年前に道忍への譲りを悔い返して、孫娘(孫夜叉=鳥居女房)に譲っていた。死期が迫ってきたことで譲ったと思われる。阿忍死亡後も鳥居女房により訴えは継続され、いつまでも道忍が文書を抑留すれば、東山道郷の没収もありえたため、最終的には返還し、その後、道忍の孫兼見が伊甘郷を獲得したことで、文書も入手したと思われる。
 宛名の土屋□衛門六郎入道については摺消、書き直しがあるとのことで、若干の留保が必要であるが、これを前提とすると、この時点までに、鎌倉初期に得た安濃郡大田北郷に加えて邑智郡桜井庄の地頭となっていた可能性が高い。
 道忍が抑留した阿忍文書の内、寛元二年七月一八日関東下知状は、益田兼時死亡に伴う遺領配分に関するものであろう。兼時は仁治三年(一二四二)四月二五日関東下知状には「左衛門尉兼時」とみえ健在であった。前に述べたように、この時点で兼時の二男兼久は「松房丸」と呼ばれており幼少であった。嫡子兼長の妻となる阿忍についても嘉禎三年(一二三七)前後の生まれとして矛盾がないとしたが、そうすると兼長も寛元二年時点では一〇才前後となる。
 兼長が兼時の後継者となり、庶子兼久は長野庄内の美濃郡飯田郷と邇摩郡宅野別符を配分され、後に周布氏領安富郷を譲られていた兼定の養女幸寿を妻とした。すると阿忍二五才時に兼長が死亡し、益田氏惣領と兼長領は兼久が継承したが、一方で阿忍は兼長跡の後家とされた。文永一〇年に阿忍は伊甘郷の配分を受けた。前には兼長領の配分が文永一〇年に行われたとしたが、そうではなく、兼久領の配分として亡夫兼長領であった伊甘郷と弥富名を得た。この時点で兼久はすでに死亡していた可能性が高い。益田氏惣領の地位と兼久領の多くは嫡子兼胤が相続した。
 以上のように考えたのは、兼胤が所領を相続していなければ、彼が女捕の科で所領を没収されることはあり得ないからである。女捕の被害者は兼長と阿忍の間に生まれた娘であったが、結果としては兼胤の妻となり兼弘を産んだ。兼弘(道忍)はわずかに没収を逃れた東山道郷の地頭となった。その兼弘が成長した時点で伊甘郷を譲ったが、それが幕府により安堵されるのは阿忍が死亡した時点である。ところが、阿忍領の再配分の必要が生まれたためか、阿忍と兼弘の対立が生じ、阿忍は伊甘郷を悔い返した。

2019年1月25日 (金)

俣賀村の分割

 承久の乱後に入部してきた内田致義が開発の拠点とした場所については報告書や渡邊氏が指摘する本俣賀村「土井ノ内」で問題ない。前述のように院政期の俣賀村の田数は六町程度であり、周辺地域と比べて開発が遅れていた。得屋郷(二〇町二段小)については多田村の谷戸部分よりも稲積山と益田川の間の地域(吉田上村)が中心であったと思われる。近世初頭の多田村の石高は一七七石しかない。俣賀村の北側にあった角井が院政期には八町五段半と俣賀村全体を上回っており、川の下流域部ながら開発が進んでいたことになる。
 致義は俣賀村を嫡子致直と庶子円戒、並びに蓮念に譲った。これ以外に女子分もあったであろうが、小規模であったと思われる。円戒が譲られたのは俣賀川西岸部分と梅月谷であった。その北側では角井郷に接していた。円戒(下俣賀氏)の館としては梅月谷の入り口北側の「土井」が有力である。円戒が空昭から三ヶ所の狩倉を打ち渡されたが、西田平は角井堺小中倉を北限とし、安富へ向かう道を西限としている。介中尾は「土井」背後の丘陵状であった西限が梅月谷で北限は里とある。俣賀から横田下小山までの狩倉は、横田下村の関係で認められたものであろう。同時期に致直(上俣賀氏)も狩倉を打ち渡されたとは確実であるが、それが下俣賀氏の三ヶ所と全く同じと前に述べた点は撤回する。その後、円戒の後家光阿が介中尾の狩倉の上俣賀氏分を浸食したため、上俣賀氏致直の子致俊が幕府に訴え、最終的には嘉暦二年に和与が成立した。近世初頭の本俣賀村が二七七石であるのに対して梅月村は二九二石で、枝谷である梅月谷の方が開発は進んでいた。ただし、東国御家人入部以前の原俣賀氏の本拠地であった可能性が高く、そこを内田俣賀氏氏が
掌握し、庶子円戒に分割して譲ったのだろう。近世の左ヶ山村(一〇二石)も上俣賀氏領であり、これを加えれば下俣賀氏領を上回っている。
 残るは小俣賀であるが、嫡子致直の舎兄蓮念に譲られたが故に、俣賀田畠在家地頭職(年々作物以下事)をめぐる対立が生まれ、正応三年一〇月に和与が成立し、永仁三年五月に幕府の安堵の下知状を得た。近世初頭の石高は一七二石である。その背景は不明であるが、鎌倉末期には一時的に惣領内田氏が支配していた。
 報告書、渡邊氏論文を踏まえ、現段階では以上のように考えた。

俣賀村と俣賀氏3

 父宗茂の死亡時期は不明だが、文応元年に致員が石見国内での押妨を訴えられているのは、父の死後、致員もまた両国の所領を行き来して活動するようになったことを示している。そして文永八年四月には石見国豊田郷と貞松名の惣領地頭職を嫡子致直に、遠江国内田庄下郷の惣領地頭職は庶子致親に譲った。致直は石見国に下向したが、男子が生まれなかったため、父の意向を受けて、庶弟致親の子朝員を養子とした。致員は弘安四年には内田庄下郷を孫朝員に、翌五年には豊田郷・貞松名を致員に譲っている。大山氏は致直側はこの措置に不満があったとするが、致直は石見国に下向してきた朝員とともに庶子俣賀氏領の押領を始めている。致直の娘と周布氏庶子内兼次との間に生まれた子は当初兼村と名乗ったが、朝員の養子となるとともに、その娘と結婚して三郎致員と改名した。朝員は文保三年正月には自らの嫡子孫八郎致景には内田庄下郷のみを譲っている。
 俣賀郷については『島根県の地名』(平凡社、一九九五)でも述べていた。当初益田市域は担当ではなかったが、原稿に穴があいたため、美濃郡長野庄と簸川郡の出雲大社領でない部分を当方が新たに執筆した。長野庄については、鎌倉遺文に基づき嘉元二年七月二七日に将軍と北条氏がそれぞれ文書を発給している点が誤りであることを再確認していなかったため、この時点で関東御領となっていた可能性が高いと評価を誤ってしまった。俣賀村については致直、円戒、蓮念などの息子に分割して譲られていると明記している。『中世益田・益田氏関係史料集』でも幕府文書で「依仰執達如件」という文言がないのに「御教書」とあるのはなぜであろうか。鎌倉遺文でもよくあることだが、遺文は竹内理三氏がとにかく古文書の情報を伝えるために作成しており、それを利用するものが修正していかなければ意味がない。
 報告書と渡邊氏の論文で須子村の屋敷が注目されているが、基本的には吉田郷を支配した非御神本系藤原氏が須子を支配し、その一部が一時的に俣賀氏のものとなっただけなので、最終報告書では正しい評価をしてもらいたい。上俣賀氏と下俣賀氏との関係も渡邊氏が想定しているものとは状況が異なっている。吉田郷は長野庄最大の所領であるが、以前から誤った評価しかうけていない。その領域には鎌倉時代には海が入り込んでいたというのでは話にならない。最近になって発掘が行われ、ようやく正しい方向へ変化しつつはあるが。

俣賀村と俣賀氏2

 俣賀・横田村一分地頭致直と内田氏惣領地頭朝員との間の山河畠をめぐる裁判で、朝員側は致直が主張する山河は一族寄合とする事を記した譲状の奥書は、俣賀氏初代の致義の母で、嫡子致員にとっては継母である女性(後家であった)が執筆者筑前房を語らって後で書き加えたものであると主張した。ところが朝員が所帯する嫡子致員宛の譲状にも同様の奥書があったため、その主張は認められなかった。ここから俣賀致義は晩年(承久の乱後)の宗茂とその後室との間に生まれた子で、嫡子致員の異母弟であることが明らかである。
 嘉禎二年六月に宗茂が譲状を作成しているが、弥益丸(宗重)の誕生を受けて新たに作成し直したものであろう。内田氏の本拠とした遠江国内田庄下郷よりはるかに広範囲に及ぶ所領であり、内田氏惣領も両国を行き来して支配にあたったと思われるが、現地に常住する庶子として俣賀氏が誕生した。俣賀村のみならず、中心となる横田村の一部(横田下村)を譲ったのもそのためであろう。俣賀村は豊田郷成立以前は美濃郡内であった可能性が高いが、豊田郷内に含まれたことでその性格は大きく変化した。豊田郷は中心である横田村(中豊田)が吉賀郡内であったため、郷全体が吉賀郡内とされた。豊田郷内に「大境」という地名が残っているが、大境以北は美濃郡安富郷であった。
 宗茂は晩年の子致義を重視し、譲状作成直後に幕府の下知状をもらうと、その後は遠江国は嫡子致員に任せ、石見国内で居住したと考えられる。宗茂の譲状を安堵した幕府文書は三通残されている。嫡子致員に内田庄下郷を安堵した文書は遠江守護でもあった連署北条時房が単独で発給している。これに対して、致員への石見国所領の譲与と致義への譲与は将軍家政所下文(時房は別当として署判)で安堵されている。前者には「亡父」とあるが後者二通には「父」とのみあり、且つ致義宛のみが原本であることからして「父」が正しいとすべきである。
 内田庄下郷の安堵状は守護時房と内田氏の関係の深さを物語っている。致員こそ任官せず三郎のままであったが、その子致直・致親は左衛門尉、致員の弟致義は兵衛尉に任官している。致義は兄致員よりも甥である致直・致親と年齢が近かったと思われる。

俣賀村と俣賀氏1

 分析する度に異なる説を提示する状況に陥っているが、その最大の原因は、上俣賀村と下俣賀村の範囲が不明(判断する明証がない)だからである。今回の歴博の調査で広範囲な地名の検出により進展を期待したが、道半ばというところか(現時点の報告書と論文を見る限り)。
 上下俣賀村は本来存在した区分ではなく、東国御家人俣賀氏が入部して分割相続をしたことで生まれたものである。そこで問題となるのが、俣賀村が「中道」を堺に分割されたとする渡邊氏の見解が、今回の研究の共通理解かどうかである。それ以上に残された情報に合致しているかである。豊田郷の範囲についても報告書では大山氏の誤った見解が踏襲されている。
 貞応二年の石見国惣田数注文によると長野庄内得屋郷が二〇町二段半であるのに対して、豊田郷は一八町四段一五〇歩でしかない。長野庄は一二世紀半ばの待賢門院分国ないしは藤原忠実(忠通ではない)の知行国主であった時期に寄進・立券されているため、この田数は一二世紀半ば以前のものであるが、如何に開発地が限られていたことがわかる。俣賀村の田数は多く見積もっても庄全体の三分一であろうから、六町以下となる。その背景は得屋郷よりも俣賀村の谷が大きく、その一部しか開発されていなかったことである。俣賀村の状況は鎌倉初期に地頭が補任され、東国御家人領となったことで大きく変わった。長野庄内白上郷は那賀郡来原別符と同様、東国御家人田村氏領となっている。それまでの庄官の拠点としたのは川上流部の枝谷の部分だったとのに対して、東国御家人は下流部に拠点を設けて開発を進めていくとされる。俣賀村についてもその観点からの分析が必要である。ちなみに貞応二年惣田数注文では七町三〇〇歩であった那賀郡永安別符が、正中三年に姉と弟の間で中分された時点では五〇町になっている。
 渡邊氏は俣賀村が中道を堺に分割されたとしているが、それでは梅月谷が庶子下俣賀氏領となったことと矛盾している。基本的には河を堺に分割されたとすべきであろう。その際に問題となるのが「上」と「下」である。本俣賀川(角井川)を基準に考えれば下流域が下俣賀村で上流域が上俣賀村となるが、俣賀村が豊田郷内に含まれた(豊田郷は吉賀郡内である)ことは上下が逆転する可能性がある。俣賀村から豊田郷の中心である横田村へ降っていく観点からである。自然の地形と人為的に作られた豊田郷の枠組みとでは正反対となる。すなわち横田村に近い方が「下」であり、遠い方が「上」である。上俣賀村と下俣賀村が河で分割され、横田村に近い俣賀村南部が下俣賀村であれば、梅月が下俣賀氏分であることと矛盾しない。

2019年1月24日 (木)

俣賀致弘について2

 永和二年閏七月八日に益田城での忠節を賞されている「内田俣賀新三郎」は致治の子であろう(289号)父との区別で「新」が付けられている。康暦元年七月二六日には、内田氏惣領肥前入道とともに内田新三郎が当知行地を守護大内義弘から安堵されている。この後、義弘と弟満弘の対立が起こると、内田氏惣領は満弘方となった。対立は父弘世の死により和睦に至ったが、至徳二年に対立が再燃した。その際に、俣賀新三郎は内田氏惣領とともに満弘方となった。満弘を聟としていた益田氏も満弘を支持し、義弘方と対立した。至徳二年七月一一日に満弘が俣賀地頭職を新三郎に返付けており、康暦元年に安堵された所領が何らかの理由で没収されたことになる。満弘は所領を返すことで新三郎を御方とした。没収された所領は致弘系俣賀氏に与えられていたのではないか。前後二度に亘る大内氏内部の対立が石見国人にも影響を与えた。
 応永二八年一二年一二月、沙弥景勝(俣賀兵庫尉致貞)が豊田郷之内俣賀村之地頭職と横田之内田畠等を嫡子掃部左衛門尉致家に譲っている。次いで翌年正月には致家が嫡子賀幸丸と賢幸丸に譲っている。賀幸丸に女子しかない場合は、その後は賢幸丸が知行するとし、女子もない場合は賢幸丸が永代知行することを認めている。ともあれ、譲状の所領をみれば景勝とその子致家、孫の賀幸丸・賢幸丸は致弘の子孫である。ただし、致家の官職「掃部左衛門尉」は致治の父致義にちなむものであり、景勝と致治系女子との間に生まれたのが致家であろう。その結果、両系の文書が一括して残されることになった。ただし、反幕府方としての軍忠状などは意図的に残されなかった。
 ブログの記事を確認したが、「内田氏と俣賀氏」(致義を上俣賀家の庶子とした)「俣賀氏について」(致義を下俣賀氏惣領とした)は根拠を示して述べているが、少し考えすぎた結果の記事となった。混乱を避けるためには削除した方がよい気もするが、とりあえず思考の過程として残しておきたい。今回述べたのが現時点の考えである。関係人物の生没年代を想定しながら得た結論である。南北朝初期の致義は上俣賀家惣領であり、文書を残したのは致弘系=下俣賀氏であるが、上俣賀氏との婚姻関係により得たものである。

俣賀致弘について1

 以前、高校生向の島根読本の中で、本文だけでなく興味を引くようなコラムも入れるとの方針が出されたので、いくつか入れた。本因坊道策の原稿には「波乱の大会」(全国高等学校囲碁選手権で出雲高校が優勝候補を破って優勝したのを、日本棋院発行の『囲碁年鑑』がこの題名で報じた)を、益田氏の原稿には「間違えられた人」と題して、戦前に郷土の忠臣とされた内田致景が、実は幕府方で、南朝方として豊田城に立て籠もったのは父朝員の養子(娘聟)致員(母は内田氏惣領致直の娘)であることを述べた。
 同様に間違えられた人が俣賀致弘である。『中世益田・益田氏関係史料集』(以下では史料集の番号を記す)にも「内田左衛門三郎」(俣賀家文書分のみ、内田家文書の同時期にみえるのは致景の嫡子致世である)に「致弘」の注記がたくさんあるが、「致治」の誤りである。193号の内田左衛門三郎も俣賀家文書なので致世ではなく致治である。201号の内田左衛門三郎は俣賀熊若丸と同一人物であり、「致弘」ではなく「致治」である。224号により「俣賀左衛門三郎致治」であることは明白である。
 致弘の初見史料は正平六年一〇月八日常陸親王令旨の宛所「俣賀兵庫允」である。尊氏が直義に対抗するため南朝に下さった八月以降、令旨が出されるようになり、直義は北陸に逃れている。致治と致弘は尊氏方であったが、その後、南朝との和睦が解消された時点で、その対応は分かれる。文和二年正月一〇日には、守護荒河詮頼とともに石見国の幕府方の中心であった吉見範直が俣賀兵庫助(允ヵ)に対して最初から幕府方として戦功を上げてきたことを注進することを伝えているが、正平一七年には南朝から兵庫允致弘を兵庫助に補任する口宣案が出されており、致弘は幕府方から南朝方に転じたと思われる。これに対して致治は「内田左衛門三郎」のままであり、幕府方であった。石見国では大内弘世が幕府に帰順する貞治二年九月頃までは、反幕府方が優位に立っていたが、これ以降、幕府に帰順する国人が続出し、幕府から所領を安堵される。
 貞治五年には石見守護山名義理の使者が四月二五日奉書に任せて内田左衛門三郎に所領を打渡している。四月二八日には俣賀村地頭職(守護使長経)、二九日には横田下村内俣賀分領(守護使貞遠)である。八月一九日には守護使道源と上使忠基の連署で、俣賀村地頭職と吉田郷内女子分を打ち渡されている。横田下村はみえないが、吉田郷女子分とは光阿跡須子村内名田畠である。これに対して、反幕府方であった致弘への打渡状は残っておらず、代わりに八月一〇日に譲状を作成し、嫡子道祖丸に俣賀村地頭職と横田内田畠等を譲与している。

2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏8

 渡邊氏は下俣賀氏の拠点として最も重要なのは須子村田屋敷であるとされた。氏の理解が、論文の要旨に述べられているうように、惣領上俣賀氏が内陸部を拠点としたのに対して、下俣賀氏は山野用益権とともに河川流通に関与したとしている。そこから下俣賀氏は庶流ながらも俣賀氏一族内では優越した存在だったとまで述べている。最終的に下俣賀氏が存続したとの理解もその背景にあろう。問題はこの説に根拠があるかである。例えば、須子は長野庄内吉田郷との関わりが深い所領であるが、俣賀家文書として残っているのは前述の三点のみであり、須子は下俣賀氏が安定的に確保した所領ではない。『概報』の地図「1、長野庄の領主拠点を探る」で二つの俣賀氏の勢力圏に角井や須子を含めているのは不正確である。
 氏は俣賀村は谷田を貫通する中道を堺に分割されたとしたが、本来の大山氏の説が破綻した段階ではゼロベースで考える必要があるのに、中道は内田氏惣領と庶子俣賀氏の分割相続では横田村で適用され、次世代の俣賀氏内部の分割相続では俣賀谷でも適用されたと解釈した。ただ、これを地図上でみると、大山・渡邊両氏の説く「中道」の南東側よりも北西側が田畠では圧倒的に恵まれており、且つ、下俣賀庄となった梅月は道の南東側にあり、ありえない説とせざるを得ない。田数等は同規模でも権限において上俣賀氏が優越した形で譲られたはずである。
 横田村をめぐる分割で、大山氏の主張した中道を採用した渡邊氏の説にも疑問がある。これでは横田上村が存在しないことになってしまう。内田氏惣領家は市原を支配していたが、『概報』では横田村の北東側地域に比定されている。横田村を分けた中道とは大山氏や渡邊氏の説くルートではなく、横田の町を東西に貫くもので、現在の上市、中市、下市がそれぞれ横田上村、中村、下村に相当している。この中の横田下村が上俣賀氏と下俣賀氏で分割されており、河川流通に関与していたのは上俣賀氏も同様であった。これに対して惣領家は中豊田(横田中村と向横田)と道辺(上野、家下、山本、大境)、さらには市原、下角、篠原、大嶽を支配した。ところが『概報』が地図「1、長野庄の領主拠点を探る」で示した範囲は、安富村を除く明治の豊田村に等しいという大山氏の誤った理解に基づき作成されている。そこには向横田、下角、篠原、大嶽(大滝)が含まれていない。
 とりあえず、渡邊氏の論文に触発されて再検討してみた。報告書では内田氏支配領域を含めて論ぜられるようなので、期待したい。

豊田郷と俣賀氏7

 従来は、康永三年二月二五日に上野頼兼が、尼光阿跡の須古(子)村内名田畠が覚猷庵主によって押妨されているとの熊若丸の訴えを受けて、覚猷の違乱を止めて熊若丸に打渡すよう、大森左衛門二郎に命じている。関連文書である年未詳一一月一三日益田惣領兼世書状によると、助つぼねに預けられていた光阿跡の須子手継文書が覚猷方に渡され、これを根拠に覚猷が押妨したのに対して、熊若丸の軍忠を確認した上で熊若丸に文書を渡すべきだと返事している。文書の改編は熊若方の権利の正当性を裏付けるためのものであった。
 光阿は下俣賀氏初代円戒の妻で、夫の死後も後家として上俣賀氏との裁判を行っているが、熊若丸が光阿の孫だと解釈すれば、熊若丸の要求の背景はよくわかる。これが、当初、上俣賀氏とした致義を下俣賀氏であると変更した根拠であった。ただし、文書を改編したように、光阿と熊若丸の関係(通説では祖母と孫)を直接示す史料はない。所持しなかったため改変したものであろう。建武二年時点の光阿の後継者は前述の尼妙戒(「円戒」の子ヵ。『概報』所収の系図では上俣賀氏致俊の妻とされるが根拠不明)であり、その所領俣賀・横田両村に対して又三郎致義が濫妨を働いていた。致義は下俣賀氏惣領ではなく上俣賀氏であるか、または下俣賀氏の庶子と考えざるを得ない。「三郎」であることからしても上俣賀氏とすべきであるが、その一方では下俣賀氏領の取り込みを図っていた。両家の間で婚姻関係が結ばれており、致義の母が下俣賀氏の女性であった可能性もある。そうすると、なんらかの理由で闕所となった須子村に対して、熊若丸が幕府に安堵を求め、幕府・守護も御方として軍忠を積む熊若丸の要求を認めることはあるのではないか。すでに述べたように、熊若丸=内田左衛門三郎致治は、反幕府方が優勢となった観応の擾乱時にも幕府方であり続けている。なお、須子村田畠が光阿領となったのは、光阿が夫円戒から譲られたものではなく、光阿が須子を支配する一族の出であったからであろう。

豊田郷と俣賀氏6

 次いで上島氏は観応二年からは「内田左衛門三郎致弘」が登場し、熊若丸のこととして間違いないと述べる。「内田左衛門三郎」はそれ以前から内田氏惣領致景の嫡子致世が内田家文書にみえており、これと俣賀家文書の「内田左衛門三郎」を混同しなかった点は評価すべきである。ところが内田(俣賀)左衛門三郎を致弘と解釈したのはいただけない。とはいえ、大山氏以来の研究では、石見国大将上野頼兼を分析した水野圭士氏「南北朝前期「大将軍」上野頼兼の位置付け」(日本歴史789号、二〇一四.二)を含めて、ブログ主以外のすべての人が致弘と解釈している。『中世益田・益田氏関係史料集』では当方は系図を担当しており、文書については担当者中司氏が西田友広氏の助言を受けつつ編集していた。参考として途中段階の文書データをいただいたところ、内田家文書と俣賀家文書の「内田左衛門三郎」が混同されていたため、根拠を述べて訂正をお願いした。混同は解消したが、俣賀左衛門三郎については致弘との注が付けられた。従来は名前は不詳であったが、久留島氏を代表とする科研報告書で発掘された文書により、「致治」であることが明白になったにも関わらずである。致義・致治父子が上俣賀氏であるのに対して致弘は下俣賀氏である。
 話を渡邊氏の論文に戻すと、注の中で俣賀三郎致義と俣賀掃部左衛門尉致義を別人とし、熊若丸の父致義が建武四年までに死亡したため、致義の兄弟春若丸が「掃部左衛門尉致義」として活動し、熊若丸はその養子となったとの、どうみても苦しい解釈を提示される。あまりにも文書を解釈する際の柔軟性に欠けており、致義が南朝方であったと解釈すればすむ事である。渡邊氏の柔軟性の欠如は長野庄内須子村に関する史料の解釈でもみられる。暦応三年三月二九日上野頼兼書下により、内田掃部左衛門尉に対して、石見国須子村田屋敷の知行が安堵されていた。これを本来「俣賀」と記されていたものが摺消され「須子」に訂正されたことが、今回の歴博の調査により明らかにされた。

豊田郷と俣賀氏5

 これまで分析する上での最大の難点は文書に登場する三ヶ所の狩倉の所在地と両家の領地を確定するだけの地名に関する情報が不足していたことである。佐倉歴博の共同研究でその課題が克服されることを期待したが、一歩前進程度である。最終報告書に期待したいが、どうであろうか。今回、下俣賀氏が惣領内田氏から認められた狩倉は上俣賀氏を含めた俣賀氏全体に関わるものであると考えたことで、ようやく理解が深まった。
 俣賀氏初代の致義の子兵衛三郎致直が上俣賀氏初代で、兵衛五郎円戒が下俣賀氏の初代で、両者の所領規模はほぼ同規模であるが、内田氏惣領と同じく「三郎」を仮名とする致直が俣賀氏惣領であった。それゆえに南北朝初期の内田三郎致義も上俣賀氏と考えたのである。建武二年五月九日には横田郷俣賀・横田両村地頭尼妙戒が致義を訴えことを受け、沙弥了忍が俣賀又三郎(致義)に出頭するよう伝えているが、妙戒が下俣賀氏であることは明白である。ただし、微妙な問題があり、後に致義もまた下俣賀氏であるとの解釈に変更したが、今回気づいた点を踏まえれば、やはり上俣賀氏とすべきである。
 建武四年正月一一日に守護上野頼兼が俣賀熊若丸に父俣賀三郎致義跡を預けている。この致義について上島氏が理解不能な説を提示されていたが、渡邊氏はここから致義が死亡した可能性が高いと述べられた。これもまた驚かされた。給人未補の間預けたと記されているが、致義が譲状を作成する前に死亡したため給人未補であったと考えたのであろうか。そうではなく、父致義は健在ではあるが、長門探題攻撃以来の高津氏(建武政権下の石見守護)との関係で、南朝方として畿内で活動していたと解釈すればすむことである。当然、幕府から闕所とされ、幕府方の国人に与えられることが予想されたが、幕府方として活動していた熊若丸と代官が、他の国人領となる前に預けられたのである。父致義は南朝方から掃部左衛門尉に補任されていたが、度重なる幕府からの軍勢催促の結果、幕府方となり、熊若丸と行動を共としたが、建武四年九月には両者が冒頭の名前を除けば同文の軍忠状を上野頼兼に提出し、承判を受けている。二通の文書は所蔵する花園大学のHPで写真を見ることができるが、科学捜査研究所の分析に委ねなくとも同筆であることがわかる。上島氏が致義は俣賀氏惣領で、熊若丸を庶子家であるとの根拠不明の説を文書の解説で述べている。掃部左衛門尉致義は暦応三年八月頃討死し、熊若丸が九月一七日に「親父俣賀掃部左衛門尉討死」として本領を安堵されているから、致義の討死とともに惣領家を相続したものと考えられるとの珍解説を述べている。

豊田郷と俣賀氏4

  前回挙げた「石見国中世武士団の一考察」(一九九四.三、島根県高等学校教育研究連合会『研究紀要』第三〇号)は末尾で大山氏の論文への疑問を述べているが、具体的分析を行ったのは「中世史四題」中の「3.内田氏と俣賀氏」であった(一九九四.三)。前者はなぜか益田市作成の「中世益田地域・益田氏に関する文献」の中から洩れているが、一九九二年二月一四日の島根県中世史研究会で発表した「益田氏惣領制の再検討」の内容にも言及している。後者は文献に掲載されているが、その最後には文書から作成した俣賀氏系図の試案も掲載している。研究会での報告後、益田市の歴史の会で益田氏について講演した際に作成・提示したものである。大山氏の論考は作成時期が重なったため参照しておらず、岩波講座『日本通史』所収の大山氏の論文を読みその存在を知り衝撃を受けたが、すぐに大山氏の解釈が誤りであることを確認でき、安堵した記憶がある。以下では歴博HPで公開されている『中世益田現地調査成果概報』(以下では『概報』)の内容を含めて述べる。
 俣賀家文書については、上俣賀氏、下俣賀氏のいずれが残したものなのかという点と南北朝初期の俣賀致義がいずれの家の人物なのかという点が難解である。前者については大山氏以来、一四世紀初頭の円戒の系統が残したものとの説が出されている。ただ、大山氏は俣賀氏が二系統に分かれている点を看過してしまった。渡邊氏はそれに気づいた上で、円戒=下俣賀氏が残したものとした。これに関係するのが俣賀致義がいずれの家の人物なのかという問題である。大山氏と上島有氏は致義について理解不能な説を提示していた。渡邊氏も別の意味で不可思議な説を示している。致義については下俣賀氏と解釈している。
 一九九四年の論文では文書は下俣賀氏が残したもので、致義は上俣賀氏であるとの説を示した。ただ、その論拠については微妙な問題があり、ブログにアップした文を再確認すると、二〇一四年段階では、致義は上俣賀氏だが、文書を残した家については不明であるとの理解であった。それが二〇一六年には致義は下俣賀氏であると見解を改め、両俣賀家の間で婚姻関係が結ばれた結果、現在の形で残ったと理解した。今回、渡邊氏の論文に接し、改めて検討すると、致義は当初考えたように上俣賀氏であるとの説の方が可能性が高いと思い直した。

豊田郷と俣賀氏3

 朝員は内田氏に共通する「致」ではなく大仏氏との関係を示す「朝」をその名に付けている。文永末~弘安年間に前守護伊藤氏に代わって石見国守護に補任されたのは大仏朝直の長子朝房であった。朝直は一時父との関係が悪化したため、弟宣時が遠江守護を継承したが、父の死後、朝直は復権した。朝員は弘安九年には養父生仏(致直)とともに豊田郷内の庶子俣賀氏領の押領を行っている。郷内の田畠以外はすべて惣領に支配権があると主張したが、その主張は俣賀氏の訴えにより退けられた。
 致直が譲られた豊田郷内の所領には俣賀村は含まれていなかったが、元徳三年に朝員(空昭)が嫡子致景に譲った豊田郷内の所領として、惣領分中豊田已下村々とともに、小俣賀田がみえる。渡邊氏は惣領家による小俣賀田獲得は後述する一連の山野紛争の帰結を表しているのではないかとする。これも意味不明で問題なのだが、それ以上に小俣賀の大歳神社と下俣賀氏が惣領から認められた狩倉の四至の南限地名としての「大歳迫」を関連付け、「大歳迫」が「俣賀田」へ変化したとされた。問題は「大歳迫」を南限とする狩倉は俣賀から横田下小山にかけての地域にあり、俣賀田とは別物であることが明白なことである。下俣賀氏領内の狩倉は三ヶ所中の「西田平」である。舎兄蓮念が譲られていた「俣賀田」を何らかの理由で内田氏惣領家が獲得したと考える方がはるかに合理的である。
 これと関係するのが、下俣賀氏が惣領から支配を認められた三ヶ所の狩倉をどう理解するかという点である。最初は上俣賀氏が、前述のように弘安九年以来の守護の権威を背景とする内田氏惣領家(致直・朝員父子)の行為を訴え、田畠以外は一族で共同で支配することを幕府が認めた。ところが、最終解決とはならず、今度は場所を指定して狩倉を庶子に譲ったのである。ただし、三ヶ所の狩倉の所在地を考えると、これが下俣賀氏のみに認められたものとは考えられない。介中尾の狩倉については渡邊氏の理解でも上俣賀氏領内であるが上俣賀氏と下俣賀氏の間で紛争となり、惣領上俣賀氏優位の支配が認められている。下俣賀氏も一部の権利を認められたのは山野河海の共同支配に基づくものであろう。この点を踏まえると、内田氏惣領から下俣賀氏だけでなく俣賀氏全体に対して三ヶ所が渡され、次いで両氏の間で対立が発生したと考えるべきであろう。上俣賀氏分の史料は残っていないが、そのように考えないと理解できない。
 とりあえず、以上が気になった点の一部であるが、これについては渡邊氏にも再検討していただきたい(続く)。

豊田郷と俣賀氏2

 庶子俣賀氏が早くから石見国へ入部したのに対して、内田氏惣領は石見国と本領内田庄のある遠江国の間を行き来していたと思われる。内田庄が海岸部に立地したのに対して、豊田郷は中山間地に立地しており、貞応二年の豊田郷の田数は一八町四反一五〇歩に過ぎないが、実際の山野・畠・畑を含む領域は広大なものであった。惣領宗茂は嫡子致員に所領を譲ると、致員を遠江国に残して石見国に入部した可能性が高い。本来は譲状作成後、宗茂が死亡した時点で幕府による安堵が行われるが、嘉禎二年六月に譲状が作成され、一二月には幕府が安堵している。「亡父」と記されていないので、宗茂が健在であったのは確実である。俣賀村を譲られた弥益丸は嫡兄致員や庶兄致重と年齢が離れており、宗茂の晩年の子ではなかったか。
 宗茂の嫡子致員もまた両国の間を行き来していたと思われ、文応元年には往古の堺を越えて吉賀郡野郷内で狼藉を働いているとして幕府から出頭を命ぜられている。豊田郷は吉賀郡内でありながら、美濃郡内の所領を統合して寄進・成立した長野庄に含まれていた。弘長二年には致員が出頭しないため、召進めるよう幕府が遠江守護(国を入れないのが普通のようだが、国司ならいざしらず、違和感をおぼえる)大仏朝直に伝えている。通常は守護に依頼することはないが、大仏氏の幕府内での地位の高さととともに、内田氏がその家臣となっていたことがその背景にあったと思われる。
 文永八年に西仏(致員)は豊田郷と貞松名の惣領地頭職を嫡子致直(生仏)に、内田庄下郷の惣領地頭職を庶子致親に譲った。ただし一円ではなく豊田郷内の一部は致親と女子に、内田郷下郷内の一部は致直と女子等に分割して譲った。これにより内田氏惣領(致員・致直)は石見国で活動するようになる。弘安八年には致員の死亡により、致直による相続が幕府によって安堵されている。ただ致直には成人した男子がいなかったようで、致員の意向に従い致親の子朝員が致直の養子となって石見・遠江の所領を譲られた。そして蒙古襲来への対応もあり石見国に下向した。

豊田郷と俣賀氏1

 注文していた『国立歴史民俗博物館研究報告』第二一二集が届き、とりあえず渡邊浩貴氏と田中大貴氏の論考を読んだ。後者については近代以降の文書の伝来に関する基礎研究であり、特に付け加える点はないので、前者について、気になった点の一部を述べてみる。渡邊氏の研究で明らかになったことがあるとともに、新たな問題点が生まれている。
 渡邊氏は大山喬平氏が示した豊田郷内俣賀村と横田村が「中道」により惣領内田氏分と庶子俣賀氏分に分割されたとの説を退け、中道は横田村のみにかかるとした。これは、大山氏の思い込みから生まれた初歩的ミスで、当然の解釈である。「石見国中世武士団の一考察」(一九九四、以下では「論文」と表記)の中で指摘している。ただ、渡邊氏は中道のルートを再確認した上で、俣賀村が上俣賀氏と下俣賀氏に分割された際に、中道を堺に、東南側が上俣賀氏(致直)領、西北側が下俣賀氏(円戒)領に分割されたとした。中道はあくまでも横田村の中道であり、これを俣賀村を含めて考えると、数多くの矛盾が生じてくる。例えば南北朝期に内田致員が立て籠もった豊田城の所在地が俣賀氏領内となってしまう。その原因として、渡邊氏が関係者間の所領分割の一部にしか言及されないことがある。「論文」では豊田郷の範囲に関する大山氏の説も誤っていることを述べた。
 俣賀氏初代致義には三郎致直・五郎円戒とともに「豊田郷内一方地頭」蓮念がいる。致直と舎兄蓮念の間で問題となったのは「豊田郷内俣賀村田畠在家地頭職」であり、俣賀村は三分割された。また、横田村は俣賀氏領となった横田下村と内田氏惣領家領となった横田中村とともに、尼法蓮がその子に譲った「横田上村屋敷田畠等」を含む横田上村があった。文永八年に西仏が嫡子生仏に譲った「中豊田・道辺・一原・下角・篠原・大岳」を含めてその範囲を考えなければならない。横田中村と中豊田の関係も重要である。

2019年1月22日 (火)

藤原尹経と資盛

 表題の両者については「一二世紀前半の石見守」で述べたが、補足する。尹経は元永元年正月一八日に阿波守に補任されたが、初の受領であり阿波国は白河院の分国であった。同じ日に叙爵(従五位下)されているが、父尹通が鳥羽殿の修理を行った功による。九月には仁和寺宮領阿波国篠田庄に関する国司の免判に記された面積が問題となっているが、尹経は幼少であったと思われ、父尹通が関係文書を進めている。阿波国は院分国であり、且つ尹通が知行国主であった。『国司一覧』ではその後は同年九月五日の現任が確認できることしか情報が掲載されていないが、翌二年一一月二三日には、阿波守尹経に賀茂下社正殿廻廊中門等を造進すべきことが命じられ、同月二八日には父尹通は中宮大進に補任されている(『中右記』)。大治四年八月二八日に蔵人に補任された式部丞有盛について「故院一臈尹通也」とあるように、尹通は白河院の近臣であった。天治二年一月一五日に院司源有賢が三河守から阿波守に遷任し、藤原為忠が安芸守から三河守に遷任している。直接的史料を欠くが、この時点で尹経が阿波守から安芸守に遷任したと思われる。為忠の前任の安芸守が父尹通であった。保安五年三月の中宮璋子の出産雑事で饗の上達部分二〇前を阿波守である尹経が負担している。
 大治二年三月七日には法勝寺薬師堂で御仏供養が行われているが、丈六の六字明王七体を造進したのは石見守資盛であった。七月一七日の待賢門院の御産雑事で饗の庁分三〇前を石見守資盛が担当している。次いで、同三年一二月に尹経と相博して安芸守に遷任し、大治四年七月七日、死亡直前の白河院のもとに近侍していたのは、両院(鳥羽・待賢門院)と藤原為忠の妻で院の女房であったなつとも、同じく賀茂神主重助の娘いはひを、大夫尉資遠、安芸守資盛等であった(『長秋記』)。
以上のように資盛もまた院近臣であったが、白河院没後の大治五年一二月の待賢門院の熊野詣でには侍として卜部兼仲とともに供奉し、翌天承一年七月九日に白河院の骨を鳥羽御塔に渡す際にも北面の参加者として「安芸守資盛」がみえる。
 院近臣として国守となったのか、あるいは院分国の国守に補任されたのかの区別は難しいが、兼仲の前任の石見守であり藤原資盛と尹経が白河院と深い関係にあったことは間違いなく、尹経は院分国阿波の国守であった。尹経の安芸守の前任者藤原為忠もまた前述のうようにその妻が院女房として白河の臨終に立ち会っていた。
卜部兼仲が八月末に石見守に補任された背景として、七月七日の白河院の死亡があったことは間違いない。白河亡き後、石見国は待賢門院の分国とされ、白河院の近臣の息子尹経に代わって女院の侍であった兼仲が国守に起用され、世間を驚かせた。

長野庄と大家庄2

 今回の益田実氏所蔵新出文書中の寛喜元年五月九日関東下知状は、大家太郎友光と刺賀九郎友綱の間で所領をめぐる対立があり、友綱が幕府に訴えた事に対する裁許状である。幕府での対決(三問三答)に至る前(入門が行われる)に両者の間で大家東郷は友光分、佐起本郷は友綱分とする和与が成立したのを受けて、幕府が友光を大家東郷地頭職に補任している。両者は「友」の通字を持つ藤原氏一族であったことがわかる。邇摩郡内大家東郷とともに、安濃郡内刺賀郷、邑智郡内佐起本郷も藤原氏領であった。
 以前は三庄とも摂関家領で、関白藤原忠通が石見国知行国主であった天養元年以降に成立したとされていたが、長野庄は摂関家領ではなく皇室領であることを明らかにした。近年、西田友広氏が長野庄領家職を待賢門院の侍民部丞(大夫)卜部仲兼の関係者が相伝したとの説を提示した。仲兼は大治四年五月には待賢門院のために御産御祈を行うとともに等身愛染王百体を増進し、受領でも院司でもない仲兼がその行為を行ったことは驚くべきことであった。卜部氏は祭祀を司る一族であり、仲兼は女院の支持により諸社司に多補されていた。次いでその功により同年八月二八日に石見守に補任され、二期八年務めた後に和泉守藤原宗長と相博した。
  両国が待賢門院の分国であることとその背景についてはすでに述べた通りであるが、兼仲の前任の石見守藤原尹経並びにその前任の藤原資盛も注目すべき人物である。

長野庄と大家庄1

 長野庄と大家庄は益田庄とならんで石見国における大規模庄園であるが、益田庄がその内部所領の地頭がすべて御神本氏(ただし、乙吉・土田両村地頭は非益田氏系)であり、中核所領である益田本郷の占める割合が惣田数の六割強であるのに対して、長野庄では最大規模の吉田郷で三分一強(ただし中核所領は飯多郷ヵ)、大家庄では最大且つ中核である大家東郷が占める割合は四分一弱でしかない。大家西郷を併せても四割弱であるが、一方は非御神本系藤原氏であり、他方は非益田氏系御神本氏である。福屋氏、周布氏といった益田氏系御神本氏が婚姻関係を通じて大家庄内の所領を獲得したのは鎌倉期以降である。
 長野庄と大家庄では内部の所領の独立性が高いがゆえに、全体を束ねる惣政所職(長野)と惣公文職(大家)が存在し、内部所領の庄官がすべて地頭職となり、その補任権が庄園領主(領家)の手を離れた後も、惣政所職と惣公文職の補任権は領家が保持している。ただし、大家庄惣公文職については領家の補任を幕府が保証する下知状が出され、源二郎惟行は「石見国御家人」と呼ばれている。
 以前のブログの記事では寛元元年十一月二三日関東御教書により惟行の安堵を伝えられた宛所の「源二郎」を領家と解釈したが、新出文書により源二郎=惟行であることが判明した。惟行は伴姓であったが、養父国知から惣公文職を譲られ、改姓して「源次惟行」となった。大家庄惣公文の源氏と中核所領大家東郷地頭藤原氏は別の一族であるが、前者の「国知」と後者(後述)の「友(知)光」との間には婚姻関係が結ばれていた可能性が強く、後応永二九年十二月二〇日足利義満御判御教書で、源氏跡の惣公文職を他の庄内地頭職とともに「大家出雲入道光誠」が安堵されている。
 出雲国の杵築大社領も内部所領の領主を束ねる存在として神主(惣検校)職が置かれていた。長野・大家庄との違いは、内部所領が幕府が補任権を持つ地頭にならなかったことである。また、惣政所職と惣公文職が源氏一族により相伝されたのに対して、神主職は特定の一族による相伝ではなく請文を提出した人々の中から領家が補任した。

2019年1月20日 (日)

大内弘世の幕府帰服3

 益田実氏所蔵新出中世文書の第二号文書は、三隅氏女から、益田庄内納田郷(三隅郷)、木束郷、津毛別符、疋見別符地頭職を、貞治三年八月二一日本領安堵状に任せて打渡を求める申状が出されたのを受けて、貞治六年三月五日に義詮が石見守護大内弘世に打渡を命じたものである。弘世は幕命を受けて貞治五年七月に石見国平定のために進発し、その軍功により八月末には山名義理の後任として石見守護に補任された。次いで弘世は石見国人を率いて安芸国大田へ発向している。
 益田兼見は貞治三年九月の奉書を受けて幕府方による三隅城攻撃に参加した。この時点での守護は荒河詮頼であり、攻撃を受けた三隅氏は幕府に帰参したと思われる。ただし、益田氏と三隅氏の間には所領をめぐる対立があったため、安堵を行うためには両氏間の調整が必要であった。貞治五年五月六日には三隅氏側から益田兼見に文書が引き渡されている。益田氏方とすることで合意した所領に関する文書が引き渡されたのだろう。
 この時点の三隅氏当主は兼連の孫直連であったが、益田氏との対立を緩和するために兼見の娘が直連の妻となっている。問題は所領の安堵を申請した藤原氏女であるが、兼連の娘で従兄弟の兼信の妻となっていた女性だと思われる。帰参の条件として直連に代わって三隅氏を代表する立場となったのであろう。この後、氏女の子信世が直連と兼見の娘の間に生まれた女子と結婚して三隅氏惣領の地位を継承した。
 話を戻すと、三隅氏帰服後の石見国で反幕府方として残っていたのは福屋氏であった。この福屋氏を帰服させるため、防長守護大内弘世が動員され、その功により石見守護に補任された。益田兼見からの所領安堵の訴えを受け、大内氏関係者である掃部助高弘が貞治五年一一月一八日に大内氏奉行所に挙状を提出しているが、これ対して大内氏や幕府が兼見領を安堵した文書は残されていない。周布氏も同様であるが、他氏との間に競合する所領問題があり、未解決の部分があったため、安堵状の発給に至らなかったものと思われる。

大内弘世の幕府帰服2

 同年八月一〇日に弘世が長門国二宮大宮司に祈祷を行い忠節を命じた文書では「正平十八年」と南朝年号を使用している。「貞治二年」三月に弘世が周防国分寺に与えた禁制があるが、「沙弥」と記すなど不自然な点があり、応永二六年に大内盛見に安堵を受けるために作成されたものであろう。ところが九月二〇日に弘世奉行人が長門国二宮大宮司宛に出した連署奉書では、北朝年号である「貞治二年」が使用され、これ以降の弘世関係文書には南朝年号を使用したのはない。ということで、弘世が幕府に帰服したのは九月初め頃ではないか。
 この時期の史料を確認すると、石見国の益田兼見が七月二五日に北朝年号を使用して置文を作成している。その内容は、所領を三人の息子に譲った上で、以後、悔い返したり、新たに男子が誕生しても譲状を与えることはないとしている。幕府方への復帰を決断したことにより兼見が置文を作成したものである。八月二一日には足利義詮が児玉氏に対して軍勢催促を行い、貞治三年二月一七日には足利義詮が、一二月一三日の豊前国柳城凶徒との合戦について、大内弘世から注進があったとして、長門国人小野弾正左衛門尉に対して感状を与えている。
 石見国でも貞治二年一二月一四日には義詮が守護荒河氏に対して、邑智郡出羽上下郷を、濫妨人等を退けて君谷弾正左衛門尉実裕跡に沙汰付けるよう命じている。君谷実祐は一貫して幕府方であったが、南朝方の高橋氏による攻撃を受けて討死し、出羽上下郷も高橋氏による押領が続いていた。これに対して君谷氏からの訴えを受けて、将軍が守護に命じたものであった。石見国でも国人が幕府方に帰参する動きがみられたため、君谷氏が訴えたのであろう。貞治三年八月には守護荒河氏と並ぶ石見国内の幕府方の中心であった某直信(一三日、宛所削除)と将軍義詮(二一日、周布氏宛)が国人に軍勢催促を行っている。

大内弘世の幕府帰服1

  大内弘世は観応の擾乱以降の防長両国で幕府方守護(高師泰・大内弘直と厚東武直・義武父子)と対立して南朝年号を使用して独自勢力として活動した。山陰道東部で南朝年号を使用した山名時氏が足利直冬による一時的な京都占領に関与したのに対して、弘世は直冬が石見国を発して上洛した際にも同行せず、直冬と連携したことは確認できない。
 この弘世が幕府に帰服した時期については、貞治二年春(佐藤進一氏)ないしは同三年春(『太平記』)とされるが詳細は不明なので、再確認する。大内氏の歴代当主と家臣団について分析した藤井崇氏は貞治元年九月と断定的に記しているが、その根拠は示されていない。
 貞治二年五月二日島津師久軍忠状(『旧典類聚』)によると、大内弘世が豊前国に渡海して来たため菊池肥後守武光が退散して幕府方にとって一時的に事態が改善したが、程なく弘世が帰国した。そのため幕府方には難儀な事態となり、九州探題斯波氏経も周防国に逃れたため、島津師久から飛脚を進めたところ、上洛するとの返事であった。
 これだけでは情報が不足して事態が十分理解できないが、『太平記』によると、長門国で弘世方と対立してきた厚東駿河守(義武ヵ)が不利な事態を打開するため、筑紫に渡って菊池氏などの南朝方と結んで弘世と戦おうとした。これに対して弘世が厚東氏を追う形で渡海して豊後国で菊池氏と戦ったが、二度の合戦に敗北して包囲されたため、防長に帰国した。この一連の動きの前提として、弘世が幕府方に帰参したことがあるというのが佐藤氏の説の前提であるが、弘世が九州の南朝方と戦ったのは敵対する厚東氏の行動によるもので、消極的選択であった。

2019年1月19日 (土)

白上村地頭委文氏3

 美作国倭文庄を含む委文氏の関係史料を確認する。延文五年三月一四日足利義詮袖判下文により、赤松筑前守貞能法師に対して、美作国委文庄公文職(委文安房守跡)等が与えられている(赤松春日部文書)。勲功の賞として、信濃国捧庄。駿河国服部庄替として与えられている。延徳二年八月二八日には賀茂社神主棟久が美作国倭文庄代官職に関して、守護赤松氏被官人小倉小四郎による年貢対捍があるので、代官職を大河原三郎に交替させたが、小倉が在所を打渡さないとして幕府に訴え、幕府が押妨停止を命じている(伺事記録)。
 元応二年三月二二日某碁公寄進状では、倭文庄当寺供料米を加増することが述べられている(張州雑志五四如法院文書、鎌遺二七四一九)。当寺とは尾張国熱田神宮神宮寺如法院のことで、倭文庄も尾張国の庄園だと思われる。淡路国三原郡内にも委文庄があり、承久二年の造内裏築垣役の段米負担が問題となっている。摂津勝尾寺文書にも摂津国内に所領を持つ文永三年と嘉元二年の委文氏関係文書が残っている。前者には委文行重後家播磨氏と委文光行、後者には委文光行がみえる。
 長野庄内白上村の委文氏は東国御家人として所領を得たものであり(プレ鎌倉時代の石見国には確認できない)、美作国委文庄の委文氏であるためには、東国御家人が委文庄に入部し、委文氏を苗字とするようになった上で、白上村を獲得したこととなる。一〇〇%不可能ではないが、その可能性は限りなく〇%に近いので、渡邊説は的外れと評価したものである。美作国の委文氏が院政期以来美作国で活動していた可能性があるが、国御家人が鎌倉初期に石見国内に所領を与えられることは考えられない。白上尼が美作国から石見国の御家人と結婚することも、美作国委文氏自身が東国御家人でなければありえない。以上、確認した。

白上村地頭委文氏2

 問題は委文氏の出自であるが、駿河国入江庄内委文を苗字の地とする東国御家人であろう。応永六年九月二六日に、駿河国守護今川了俊が伊達左近将監範宗に入江庄内委文・櫟田方を宛行っているが、それは範宗の本知行内であり本領安堵であった。正平六(観応二)年から七(同三)年にかけて、幕府方であった伊達藤三景宗が、足利尊氏から入江庄内三沢小次郎跡とその妻の跡を勲功の賞として与えられている。
 駿河国は当初武田氏の支配下に入ったが、後に武田氏は没落して頼朝の支配するところとなった。そのため、駿河国武士の上には幕府の有力御家人が惣地頭として君臨していた。その後、入江庄内の武士が、失脚後上洛しようとした梶原景時とその一族を誅伐する際に勲功を上げたため、船越、吉川、三沢氏らは播磨国・淡路国内の景時一族領を勲功の賞として与えられた。さらには、承久三年の承久の乱で、当時淡路守護佐々木経高に率いられ上京していた淡路国御家人(駿河国出身の御家人は対象外)は京方により没落し、その所領が駿河国御家人に与えられた。ここでは登場しないが、入江庄内には楠木・長崎があり、これが南朝の忠臣楠木氏と得宗側近長崎氏の苗字の地となった。
 現在の国土地理院地図で確認しても入江庄の所在した静岡県清水市内に委文・櫟田のみならず、三沢氏の苗字の地三沢も確認できないが、三沢氏が反幕府方となり所領が幕府から伊達氏に与えられたことが影響している可能性がある。以上の事から、委文氏は治承・寿永の内乱と承久の乱の恩賞として西国に所領を得ていた駿河国御家人と考える。その委文氏の所領が飯多郷内にも存在したのは、飯多郷が長野庄惣政所であった虫追氏の本拠地であったように、庄内支配の中心だったためであろう。
 その後、白上郷は観応の擾乱期には幕府から安濃郡河合郷地頭金子氏に与えられておいるが、これは反幕府方であった委文氏の所領が没収されたものであったためであろう。これに対して、石見国で足利直冬方が優位に立つと、白上郷に権益を持つ来原田村氏で反幕府方となった一族が直冬から白上郷を与えられ、次いで婚姻関係を持つ周布氏の所領となった。

 

白上村地頭委文氏1

 益田氏の分家に残されていた中世文書が『国立歴史博物館研究報告』二一二集で紹介されている。その中で、宝治二年十二月二六日に将軍頼嗣袖判下文で白上村半分と飯多郷内田畠在家地頭職を安堵されている「委文宗景」について、現時点での解釈を試みたい。渡邊浩貴氏によって簡単な解説が付されているが、情報が十分に踏まえられていないと思われるからである。
 苗字の委文を「しとり」と読むのは問題ないが、その苗字の地が美作国倭文庄であるとの推定は的外れである。この時点で美作国倭文を苗字としているとすると、倭文氏は美作国の武士となるが、その可能性は低い。一方、白上尼の子と思われる景盛の名前が注目される。
 藤原氏田村来原家略系によると鎌倉初期に那賀郡来原別符の地頭に補任されて入部した資盛の子として、嫡子盛家と二人の庶子(盛次・有政)が記されている。有政のみ「盛」をその名に付けていないが、それは武蔵国越生郷地頭有平の養子となり、郷内岡崎村を譲られたからである。後に来原を苗字とする田村氏は石見国の武士ではなく、東国御家人であったことはすでに述べた通りである。そして越生郷一部地頭であった有政は承久の乱の恩賞として那賀郡宇津郷を得た。さらには有政の曾孫光氏が、伊豆国御家人狩野貞親が恩賞として得ていた那賀郡加志別符と岡崎村を交換して石見国内に入部してくる。光氏の姉妹の一人は周布氏惣領兼宗(西信子)の室となり、兼氏を産んでいる。兼宗は後室が産んだ兼長を嫡子としたが、最終的には南北朝の動乱の中で、反幕府方となった兼氏が惣領となる。兼氏は庶子兼仲を来原氏の養子としたが、後に嫡子氏連が筑前国の合戦で死亡したため、兼仲を後継者とし、結果的には来原氏領を併合している。
 話を戻すと、系図には、資盛の庶子盛次は兄盛家から白上郷を譲られたとしている。前には白上郷もまた周布氏領となったために、このような記載がなされ、事実ではなかろうとしたが、前述のように、白上村半分等を宗景に譲ったのは父景盛であった。「盛」をその名につけていることから田村氏の一族で白上郷をゆずられた盛次の子であろう。白上尼の名は盛次の室となり、白上郷に居住したことに由来するものである。この尼が委文氏の出身であったのだろう。早くに父景盛を失い祖母に育てられた宗景は祖母方の委文氏を名乗ったため、来原田村氏特有の「盛」をその名に付けていない。

 

2019年1月18日 (金)

因幡守通基再考2

 通基は同年三月の石清水八幡宮と一一月の賀茂神社の臨時祭でも舞人の一人として見える。翌年一一月にも舞人としてみえた後、しばらく史料を欠き、大治二年(一一二七)一〇月一七日に、武蔵守通基が天皇への昇殿を認められ、一一月三日には神宝・神馬を奉納する使者として宇佐八幡宮に派遣されている。通基が武蔵守から因幡守に遷任したのは同年一二月七日であった。
 通基が叙爵した時期を示す史料は残っていないが、清隆の例を参照すると、天永年間(一一一〇~一一一三)であろう。従五位下に留まっていたことからすると、
武蔵守が受領の初任であると思われる。武蔵国は律令制下では最上位の大国であるが、正二位権大納言叔父宗通が知行国主であった可能性がある。そして大治五年一月六日には待賢門院給として四一才で正五位下に叙せられている(『中右記』)。叙爵して以降加階したのは初めてであるにもかかわらず、従五位上を飛び越して正五位下に叙任されたため、人の耳目を驚かしたとされる。
 通基には待賢門院女房となっていた源師隆の娘との間に、嫡子通重と次子基家がいた。通重は系図では徳大寺公能の娘との間に嫡子能保をなしたとするが、両者の生年は三二才差であり、公能の姉妹(徳大寺実能の娘)を妻としたと考えられる。実能と能保ならば五一才差となる。通基の娘は実能の同母兄西園寺通季の嫡子公通との間に嫡子実宗を産んでいる。通基の孫能保は父通重を早くに失ったため出世が遅れたが、頼朝の同母妹坊門姫を妻とし、幕府と朝廷の両方に人脈を持つことを背景に従二位権中納言まで昇進した。
 通重の同母弟基家は後に公卿となったため大治五年の生まれであることが判明する。早世した通重の生年については不明だが、その子能保の生年を勘案すると、大治年間であろう。通基が待賢門院女房で、後には院の娘統子内親王の乳母となった女性を妻としたのも大治年間で、それが大治五年に通基が待賢門院給で異例の昇進をした理由であった。
 早くに修正の原稿を書き始めたが、『長秋記』『中右記』の内容をきちんと確認する作業が必要なことを痛感させられ、ここ最近はそれを含む院政期の日記を読んでいた。それが一段落したので、ひさしぶりにアップした。

因幡守通基再考1

 西園寺通季が大治三年六月一七日に死亡している点、通季の嫡子公通が当初は藤原長実の聟となっていた点、さらには長実が長承二年八月一九日に死亡した点などが十分には反映されていなかったので、持明院通基を中心に再度論じる。
 通基の父基頼は中御門流の祖となった右大臣俊家の子で、異母弟である宗俊と宗通が権大納言に進んだのに対して、基頼は正五位下中務大輔にとどまった。基頼は受領を歴任しつつ陸奥守の際には鎮守府将軍を兼ねるなど、武人としても活躍した。
 通基の妻の父藤原国仲は高棟流平氏から良門流藤原資国の養子に入り、その子には白河の寵臣として知られる左衛門尉(相模守・信濃守)盛重がいた。資国の曾祖父兼輔は醍醐天皇の外叔父であった藤原定方の娘を妻とし、醍醐天皇の側近として昇進を重ねて従三位権中納言に昇ったが、その子の中からは公卿になるものは出なかった。
 元永元年(一一一八)一月二六日に、女御璋子が中宮に立后された際の儀式で召された六府佐の一人として右衛門佐通基がみえる。寛治四年(一〇九〇)の生まれで当時二八才であった。左衛門佐であった藤原清隆は因幡・但馬・近江守を歴任した隆時の子で通基より一才年少である。一八才で叙爵し、六年後の永久二年に二四才で左衛門佐に補任されている。二六才で紀伊守、二七才で正五位下に叙され、二八才時には中宮璋子の権大進にも補任されている。左衛門権佐(左衛門佐と同格であるが同時に検非違使の宣旨を受ける)であったのは従四位下右中弁藤原(日野)有信の嫡子実光である。実光は延久元年(一〇六九)の生まれで、三二才で叙爵(従五位下)し、右衛門権佐となったのは三七才の時点である。右衛門権佐であった藤原重隆は参議為房の子で、公卿となった為隆・顕隆の同母弟であったが、人となりに問題があり、正五位下右衛門権佐であった元永元年に四三才で死亡している。
 通基の昇進のペースは清隆には及ばないが、実光と重隆よりは勝っていた。通基は父基頼が五〇才時点の子であるが、叔父宗通(基頼より二九才年少)は通基が五才時に公卿となり、元永元年には権大納言で立后された璋子の中宮大夫を兼ねていた。その娘宗子は藤原忠通の正室となり、崇德天皇の皇后聖子を産んでいる。また通基より二八才年長の従兄弟宗忠(宗俊嫡子、『中右記』の記主)も同年には正二位権中納言の地位にあった。通基が中宮璋子に仕え、その女房を妻とする背景にあったのは叔父宗通であろう。宗通の子信通と伊通は通基と同世代(一才年少と三才年少)であるが、通基が父の「基」ととともに叔父宗通の「通」をその名に付けていることが注目される。

2019年1月 4日 (金)

出雲守源光隆の背景2

 法金剛院の整備は女院の後見人白河院が死亡してから本格化し、基隆が造営した御堂(西御堂)に続いて、三重塔と経蔵(造進者は藤原通基、保延二年供養)、北斗堂(造進者藤原顕隆の子顕能、保延元年供養)、東新造御所(造進者周防守藤原憲方=顕隆の異同母兄で女院庁別当であった為隆の子、保延元年落成)、南御堂(造進者女院判官代親隆=顕隆の異母弟、保延五年供養)、三昧堂(造進者不明、保延五年供養)が造営・整備されていった。塔や御堂の整備は個々の受領に振り分けられているが、すべてを受領が負担するのではなく、女院庁と分担した。そのため女院庁の財政基盤として女院の分国が設定されたと考えられる。
 出雲守光隆は国守となるとすぐに三期以前の未納分の責めの停止を申請し、長承三年四月二五日に女院により供養が行われた白河御堂とその仏像を重任功として整備した。実際の出雲国衙の運営の中心となったのは女院庁の判官代藤原資光であった可能性が大きい。次いで長承元年二月の資光死亡後は、後任の女院庁判官代で、平忠盛の後室宗子(池禅尼)の兄である藤原宗長がその役割を担い、宗長が仁平三年に死亡後は資光の娘である待賢門院女房阿波を妻とした資光の甥資憲が継承した。また、当初光隆は藤原基隆の猶子となったが、基隆が死亡すると妻(女院女房)とその父である女院庁判官代高階家行がその後見人となった。光隆の異母兄俊雅は久安元年に四五才で参議となったが、その年に死亡している。
 光隆が出雲守から安芸守に遷任したのは杵築大社造営が現実の問題となったためであった。安芸守在任中には、康治二年に待賢門院の子で前斎院であった統子内親王の御所三条殿を造営し、勧賞として遷任宣旨を与えられた。後見人高階家行も造営により従四位上に叙せられたが、光隆は女院死亡の一月前の久安元年七月二五日に死亡した。光隆の妻は女院死亡後は子統子内親王(上西門院)の女房となったが、久寿二年に近衛天皇が死亡し、待賢門院の子雅仁が後白河天皇として即位すると、藤原資憲の妻女房阿波とともに天皇の勾当内侍となった。

出雲守源光隆の背景1

 過去に二度述べているが、三たびとりあげる。大治五年一〇月二七日に源光隆が出雲守に補任されたのは、院近臣で播磨守であった藤原基隆が従三位に叙せられ公卿となったことによることはすでに述べた。後任の播磨守には讃岐守家成が補任され、基隆の子で出雲守に補任二年たらずであった経隆が讃岐守となった。ただし、讃岐守も院近臣の指定ポストであり、父基隆が知行国主であったと考えた。
 日記の記事を拾い読みしての見解であったが、よく読んでみると、別の面も明らかになる。先ず、基隆が従三位に叙せられたのは、後に六勝寺の一つとされた待賢門院の御願寺円勝寺(白河にあり)に対して、女院が郊外(都の北西)の仁和寺の地に隣接して本当の意味での自らの御願寺として造営・整備を進めた「仁和寺御願寺」を造営したことに対する勧賞であった。同年二月に上棟があり一〇月には完成し、数ある候補から法金剛院の名前が採用された。当初は二一日に供養が予定されていたが、基隆の家でケガレが発生する事態となったため、延期して二五日に行われた。同日には基隆が従三位に叙せられ、絵仏師明源が法橋とされた。造進を行った基隆に対して、事業の進行を統括したのが、待賢門院庁の筆頭別当である治部卿源能俊であった。
 二七日に二五日の賞を受けた小除目が行われ、御堂の祈祷を行った陰陽使二名への勧賞とともに、公卿となった基隆が手放した播磨守に代わるものとして、その子である出雲守経隆の讃岐守遷任と鳥羽院近臣筆頭藤原家成の播磨守補任が行われた。そして女院庁筆頭別当源能俊の晩年の子で七才ないしは九才であった子を元服して光隆と名乗らせ、経隆の後任の出雲守に補任した。光隆の父能俊が出雲国知行国主となった可能性もあるが、能俊が長承三年に死亡しても光隆の地位に変化はないので、待賢門院が出雲国の分国主となったとすべきである。
 光隆が出雲守となったことに関係する記述が『長秋記』大治五年九月一日条に見えるが、九月末に続くのは一一月の記事であり、現在のところ一〇月分は発見されていないようである。

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