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2019年1月28日 (月)

続国御家人の地頭化3

 承久三年一〇月 日関東下知状により、石見国大家庄への守護所使入部が停止されているが、この場合は将軍家度々御成敗の旨に任せとあり、承久の乱以前から認められていた。貞和七年三月二七日足利直冬下文により、長野庄内高津郷への守護所使入部が停止されている。その根拠となったのは高津長幸が提出した建保五年一二月三日関東下文であった。この下文は高津郷のみならず長野庄全体に対して出されたものであろう。大家庄では各所領の地頭職に対して、全体を統括する惣政所職が置かれ、領家から補任された源氏に対して幕府が御家人であるとしてこれを安堵する文書を出していた。長野庄惣政所源氏については、幕府による安堵状は残っていないが、大家庄と同様であった可能性がある。長野庄の場合も個々の地頭の保護のために守護所使不入を認めたというよりも庄園領主に対する配慮であろう。
 益田庄については、正平一四年五月二日に足利直冬から兼見の本領に対する守護使入部が、先例に任せて認められ、幕府帰参後も石見国守護に補任された大内氏から認められている。兼見はその永徳三年八月の置文で、守護使不入の根拠として近年証状とともに元亨御下知を上げている。後者については、元亨年間に益田庄に対して出されたものか、あるいは元亨年間の益田氏惣領兼弘(道忍)に対するものかが問題となるが、益田庄ならば鎌倉初期以来だと思われ、後者である可能性が高い。
 益田庄と大家庄は仁平三年閏一二月に家司源季兼を石見守として藤原忠通が知行国主の座を取り戻して以降に庄園として成立し、忠通の娘で崇德天皇の中宮となった皇嘉門院領となった。それに対して、長野庄の成立は待賢門院の侍卜部兼仲が石見国司となった大治四年から藤原忠実の家司(その娘高陽院の院司でもあった)源雅国の子国保が石見守であった仁平三年末までの間に成立した。長野庄が隣接する益田庄に先行して成立したのである。この三庄に共通するのは待賢門院の嫡子崇德天皇との関係である。頼朝が崇德院に関係する寺院や人物(崇德の子重仁の母)の庄園を丁重に扱ったことはすでにみた通りである。出雲国の園山庄と長海庄も待賢門院との関係が深く、石見国久永庄と出雲国加茂庄と安来庄は頼朝が信仰する上下賀茂神社の庄園であった。
 出雲国では庄園が問題となり、石見国では公領が課題であるが、いずれも承久の乱の結果、東国御家人が新恩地頭に補任された所領以外の国御家人領でも地頭に切り替えられたという仮説が成り立つ可能性は低いのではないか。それよりも、後鳥羽院と将軍実朝の緊密な関係を背景に承元年間以降に国御家人も地頭に切り替えられたとの説の方が可能性は高い。ただそれには知行国主などその国の事情があり、一律ではない。但馬国や若狭国のように承久の乱後も国御家人が地頭に切り替えられていない例が目立つ国もある。

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