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2019年1月28日 (月)

続国御家人の地頭化2

 石見国については、益田兼季が貞応二年に掃部助仲広との裁判で、長野庄内飯多郷地頭として度々御成敗状を賜った事を認められており、承久の乱以前から地頭に補任されていたことは確実である。苗字の地である益田庄については史料を欠いているが、兼季の庶弟兼定もまた貞応二年に本知行相違無しとして大家庄内福光村地頭職に補任されており、承久の乱以前に地頭に補任されていたことは確実である。同じ兼定領である周布郷、鳥居郷、安富郷(別符)については兼季から嫡子兼時に譲られ、兼時がその所領の中から舎弟兼定に譲ったものである。安富郷は飯多郷と同様に長野庄に属しており、乱以前から兼季が地頭職に補任されていたものであろう。周布、鳥居郷については史料を欠くが、承久の乱の影響で地頭に切り替えられる可能性は低いと思われ、やはり乱以前のある時点で郷司等から地頭に切り替えられたのではないか。
 寛元二年六月三日六波羅下知状によると、上賀茂社領邑智郡久永庄について、上賀茂社から守護所使入部と高野山流人雑事について訴えがあった。承元二年一〇月一五日関東下知状を根拠に、文治二年一〇月に頼朝が上賀茂神社に久永保を寄進して以降、社家進止の地となり、守護所の沙汰が停止されていることと、大番役の勤仕については先例に任せて対応するが、その他の課役は免除されていることを主張し、幕府がその要求を認めている。久永保が平家没官領として頼朝に与えられ、次いで上賀茂神社からの要求により、頼朝から寄進されたが、東国御家人が補任された地頭はそのままとされたことがわかる。
 守護所使入部の停止といえば、これまでみてきた出雲・石見の所領でも見ることができる(史料は欠くが、久永庄と同様、頼朝により寄進された安来庄、加茂庄も守護所使停止であった可能性は高い)。
 貞応二年一一月二日関東下知状により、薗山新庄への守護所使入部が停止されている。刃傷・殺害人が出来した場合は、地頭古庄高道の沙汰として事実確認の上召し出すように命じている。以前は、出雲国守護所が隣接する神門郡塩冶郷にあったための措置と思っていたが、これまで地頭が置かれていなかった園山庄(本庄も)は当然守護所使不入であった。それが地頭が置かれたことで、この命令が出されたものであろう。頼朝以来の幕府と領家吉田家の関係が背景にあった(幕府が配慮)。

 

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