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2019年1月28日 (月)

続国御家人の地頭化1

 前に示した仮説では、出雲国においては承元年間に公領の地頭化がなされたことを述べた。これに対して庄園については、不明としたがどうであろうか。承久の乱以前に庄園の地頭としてみえるものはすべて東国御家人かというと、赤穴氏の場合が問題となる。赤穴庄(別宮)の寿永元年の下司として紀宗実がみえ、文永八年の地頭は赤穴太郎である。さらに嘉暦元年八月一二日赤穴八幡宮神像胎内銘には紀季実がみえる。赤穴庄の庄官紀氏は治承・寿永の乱、承久の乱の影響をさほど受けずにその地位を維持したと思われるが、文永八年時点では地頭であったことは確実である。いつ、どのような理由で下司から地頭に変化したのであろうか。伯耆国山田別宮の場合、山田兵衛尉秀真が下司職を石清水八幡宮から改補された事が不当だとして幕府に訴えたが、文永一一年六月一九日の関東下知状は、庄官は地頭職ではなく下司職であり、本所進止である事を認めて、秀真の訴えを退けている。
 待賢門院の分国であったことと関連が深い円勝寺領島根郡長海庄には一三世紀初頭の建永年間から建暦二年(一二〇六~一二一二)には地頭某員綱が補任されており、その非法を領家側が幕府に訴えていたことがわかる。幕府は地頭の廃止ではなく、交替で対応しようとしている。蓮華王院領加賀・持田庄地頭に補任された土屋氏同様、員数は東国御家人であろうか。
 もう一つの事例である神門郡神西(薗山)庄については、承久の乱で「神西庄司太郎」が討たれており、地頭への変更はなされていなかった。神西庄は寿永元年七月の時点で幕府と朝廷との連絡に当たっていた吉田経房が領家であったが、本家については明らかでない。祖父為隆が子憲方を国守として出雲国知行国主であった保安二年一二月から大治三年一二月の時期に、為隆を領家として立券された可能性が高い。
 待賢門院と鳥羽院の第二皇子通仁親王の出産時に出雲守憲方が御等身六字天一躰を造進しているが、実質的には父為隆によるもので、これにより憲方は出雲守を重任した。憲方が遷任した周防守在任中の大治五年九月為隆は死亡しているが、憲方は保延元年には待賢門院の御願寺法金剛院の東新造御所を増進している。薗山庄領家職は為隆の死後は嫡子光房(経房父、憲方兄)を経て経房が継承したと思われる。経房が上西門院のもとで頼朝の上司であったとの関係から、神西庄が例外的扱いを受けて地頭ではなく下司にままとされた可能性もある。文治二年七月には前司師兼の働きかけを受けた頼朝が、師兼を園山庄下司職に還補することを求めた経房宛の手紙を師兼に与えている。師兼は頼朝の妻の甥仁憲に祗候していた縁で頼朝に働きかけた。大原郡加茂庄では没官領として一旦置かれた地頭が廃止され、本所一円地とされているが、頼朝が上賀茂神社を信仰するゆえであった。同じく頼朝は没官領として得た能義郡安来郷を下賀茂神社に寄進している。

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