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2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏3

 朝員は内田氏に共通する「致」ではなく大仏氏との関係を示す「朝」をその名に付けている。文永末~弘安年間に前守護伊藤氏に代わって石見国守護に補任されたのは大仏朝直の長子朝房であった。朝直は一時父との関係が悪化したため、弟宣時が遠江守護を継承したが、父の死後、朝直は復権した。朝員は弘安九年には養父生仏(致直)とともに豊田郷内の庶子俣賀氏領の押領を行っている。郷内の田畠以外はすべて惣領に支配権があると主張したが、その主張は俣賀氏の訴えにより退けられた。
 致直が譲られた豊田郷内の所領には俣賀村は含まれていなかったが、元徳三年に朝員(空昭)が嫡子致景に譲った豊田郷内の所領として、惣領分中豊田已下村々とともに、小俣賀田がみえる。渡邊氏は惣領家による小俣賀田獲得は後述する一連の山野紛争の帰結を表しているのではないかとする。これも意味不明で問題なのだが、それ以上に小俣賀の大歳神社と下俣賀氏が惣領から認められた狩倉の四至の南限地名としての「大歳迫」を関連付け、「大歳迫」が「俣賀田」へ変化したとされた。問題は「大歳迫」を南限とする狩倉は俣賀から横田下小山にかけての地域にあり、俣賀田とは別物であることが明白なことである。下俣賀氏領内の狩倉は三ヶ所中の「西田平」である。舎兄蓮念が譲られていた「俣賀田」を何らかの理由で内田氏惣領家が獲得したと考える方がはるかに合理的である。
 これと関係するのが、下俣賀氏が惣領から支配を認められた三ヶ所の狩倉をどう理解するかという点である。最初は上俣賀氏が、前述のように弘安九年以来の守護の権威を背景とする内田氏惣領家(致直・朝員父子)の行為を訴え、田畠以外は一族で共同で支配することを幕府が認めた。ところが、最終解決とはならず、今度は場所を指定して狩倉を庶子に譲ったのである。ただし、三ヶ所の狩倉の所在地を考えると、これが下俣賀氏のみに認められたものとは考えられない。介中尾の狩倉については渡邊氏の理解でも上俣賀氏領内であるが上俣賀氏と下俣賀氏の間で紛争となり、惣領上俣賀氏優位の支配が認められている。下俣賀氏も一部の権利を認められたのは山野河海の共同支配に基づくものであろう。この点を踏まえると、内田氏惣領から下俣賀氏だけでなく俣賀氏全体に対して三ヶ所が渡され、次いで両氏の間で対立が発生したと考えるべきであろう。上俣賀氏分の史料は残っていないが、そのように考えないと理解できない。
 とりあえず、以上が気になった点の一部であるが、これについては渡邊氏にも再検討していただきたい(続く)。

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