koewokiku(HPへ)

« 大内弘世の幕府帰服2 | トップページ | 長野庄と大家庄1 »

2019年1月20日 (日)

大内弘世の幕府帰服3

 益田実氏所蔵新出中世文書の第二号文書は、三隅氏女から、益田庄内納田郷(三隅郷)、木束郷、津毛別符、疋見別符地頭職を、貞治三年八月二一日本領安堵状に任せて打渡を求める申状が出されたのを受けて、貞治六年三月五日に義詮が石見守護大内弘世に打渡を命じたものである。弘世は幕命を受けて貞治五年七月に石見国平定のために進発し、その軍功により八月末には山名義理の後任として石見守護に補任された。次いで弘世は石見国人を率いて安芸国大田へ発向している。
 益田兼見は貞治三年九月の奉書を受けて幕府方による三隅城攻撃に参加した。この時点での守護は荒河詮頼であり、攻撃を受けた三隅氏は幕府に帰参したと思われる。ただし、益田氏と三隅氏の間には所領をめぐる対立があったため、安堵を行うためには両氏間の調整が必要であった。貞治五年五月六日には三隅氏側から益田兼見に文書が引き渡されている。益田氏方とすることで合意した所領に関する文書が引き渡されたのだろう。
 この時点の三隅氏当主は兼連の孫直連であったが、益田氏との対立を緩和するために兼見の娘が直連の妻となっている。問題は所領の安堵を申請した藤原氏女であるが、兼連の娘で従兄弟の兼信の妻となっていた女性だと思われる。帰参の条件として直連に代わって三隅氏を代表する立場となったのであろう。この後、氏女の子信世が直連と兼見の娘の間に生まれた女子と結婚して三隅氏惣領の地位を継承した。
 話を戻すと、三隅氏帰服後の石見国で反幕府方として残っていたのは福屋氏であった。この福屋氏を帰服させるため、防長守護大内弘世が動員され、その功により石見守護に補任された。益田兼見からの所領安堵の訴えを受け、大内氏関係者である掃部助高弘が貞治五年一一月一八日に大内氏奉行所に挙状を提出しているが、これ対して大内氏や幕府が兼見領を安堵した文書は残されていない。周布氏も同様であるが、他氏との間に競合する所領問題があり、未解決の部分があったため、安堵状の発給に至らなかったものと思われる。

« 大内弘世の幕府帰服2 | トップページ | 長野庄と大家庄1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大内弘世の幕府帰服3:

« 大内弘世の幕府帰服2 | トップページ | 長野庄と大家庄1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ