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2019年1月25日 (金)

俣賀村と俣賀氏3

 父宗茂の死亡時期は不明だが、文応元年に致員が石見国内での押妨を訴えられているのは、父の死後、致員もまた両国の所領を行き来して活動するようになったことを示している。そして文永八年四月には石見国豊田郷と貞松名の惣領地頭職を嫡子致直に、遠江国内田庄下郷の惣領地頭職は庶子致親に譲った。致直は石見国に下向したが、男子が生まれなかったため、父の意向を受けて、庶弟致親の子朝員を養子とした。致員は弘安四年には内田庄下郷を孫朝員に、翌五年には豊田郷・貞松名を致員に譲っている。大山氏は致直側はこの措置に不満があったとするが、致直は石見国に下向してきた朝員とともに庶子俣賀氏領の押領を始めている。致直の娘と周布氏庶子内兼次との間に生まれた子は当初兼村と名乗ったが、朝員の養子となるとともに、その娘と結婚して三郎致員と改名した。朝員は文保三年正月には自らの嫡子孫八郎致景には内田庄下郷のみを譲っている。
 俣賀郷については『島根県の地名』(平凡社、一九九五)でも述べていた。当初益田市域は担当ではなかったが、原稿に穴があいたため、美濃郡長野庄と簸川郡の出雲大社領でない部分を当方が新たに執筆した。長野庄については、鎌倉遺文に基づき嘉元二年七月二七日に将軍と北条氏がそれぞれ文書を発給している点が誤りであることを再確認していなかったため、この時点で関東御領となっていた可能性が高いと評価を誤ってしまった。俣賀村については致直、円戒、蓮念などの息子に分割して譲られていると明記している。『中世益田・益田氏関係史料集』でも幕府文書で「依仰執達如件」という文言がないのに「御教書」とあるのはなぜであろうか。鎌倉遺文でもよくあることだが、遺文は竹内理三氏がとにかく古文書の情報を伝えるために作成しており、それを利用するものが修正していかなければ意味がない。
 報告書と渡邊氏の論文で須子村の屋敷が注目されているが、基本的には吉田郷を支配した非御神本系藤原氏が須子を支配し、その一部が一時的に俣賀氏のものとなっただけなので、最終報告書では正しい評価をしてもらいたい。上俣賀氏と下俣賀氏との関係も渡邊氏が想定しているものとは状況が異なっている。吉田郷は長野庄最大の所領であるが、以前から誤った評価しかうけていない。その領域には鎌倉時代には海が入り込んでいたというのでは話にならない。最近になって発掘が行われ、ようやく正しい方向へ変化しつつはあるが。

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