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2019年1月19日 (土)

白上村地頭委文氏3

 美作国倭文庄を含む委文氏の関係史料を確認する。延文五年三月一四日足利義詮袖判下文により、赤松筑前守貞能法師に対して、美作国委文庄公文職(委文安房守跡)等が与えられている(赤松春日部文書)。勲功の賞として、信濃国捧庄。駿河国服部庄替として与えられている。延徳二年八月二八日には賀茂社神主棟久が美作国倭文庄代官職に関して、守護赤松氏被官人小倉小四郎による年貢対捍があるので、代官職を大河原三郎に交替させたが、小倉が在所を打渡さないとして幕府に訴え、幕府が押妨停止を命じている(伺事記録)。
 元応二年三月二二日某碁公寄進状では、倭文庄当寺供料米を加増することが述べられている(張州雑志五四如法院文書、鎌遺二七四一九)。当寺とは尾張国熱田神宮神宮寺如法院のことで、倭文庄も尾張国の庄園だと思われる。淡路国三原郡内にも委文庄があり、承久二年の造内裏築垣役の段米負担が問題となっている。摂津勝尾寺文書にも摂津国内に所領を持つ文永三年と嘉元二年の委文氏関係文書が残っている。前者には委文行重後家播磨氏と委文光行、後者には委文光行がみえる。
 長野庄内白上村の委文氏は東国御家人として所領を得たものであり(プレ鎌倉時代の石見国には確認できない)、美作国委文庄の委文氏であるためには、東国御家人が委文庄に入部し、委文氏を苗字とするようになった上で、白上村を獲得したこととなる。一〇〇%不可能ではないが、その可能性は限りなく〇%に近いので、渡邊説は的外れと評価したものである。美作国の委文氏が院政期以来美作国で活動していた可能性があるが、国御家人が鎌倉初期に石見国内に所領を与えられることは考えられない。白上尼が美作国から石見国の御家人と結婚することも、美作国委文氏自身が東国御家人でなければありえない。以上、確認した。

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