koewokiku(HPへ)

« 俣賀致弘について1 | トップページ | 俣賀村と俣賀氏1 »

2019年1月24日 (木)

俣賀致弘について2

 永和二年閏七月八日に益田城での忠節を賞されている「内田俣賀新三郎」は致治の子であろう(289号)父との区別で「新」が付けられている。康暦元年七月二六日には、内田氏惣領肥前入道とともに内田新三郎が当知行地を守護大内義弘から安堵されている。この後、義弘と弟満弘の対立が起こると、内田氏惣領は満弘方となった。対立は父弘世の死により和睦に至ったが、至徳二年に対立が再燃した。その際に、俣賀新三郎は内田氏惣領とともに満弘方となった。満弘を聟としていた益田氏も満弘を支持し、義弘方と対立した。至徳二年七月一一日に満弘が俣賀地頭職を新三郎に返付けており、康暦元年に安堵された所領が何らかの理由で没収されたことになる。満弘は所領を返すことで新三郎を御方とした。没収された所領は致弘系俣賀氏に与えられていたのではないか。前後二度に亘る大内氏内部の対立が石見国人にも影響を与えた。
 応永二八年一二年一二月、沙弥景勝(俣賀兵庫尉致貞)が豊田郷之内俣賀村之地頭職と横田之内田畠等を嫡子掃部左衛門尉致家に譲っている。次いで翌年正月には致家が嫡子賀幸丸と賢幸丸に譲っている。賀幸丸に女子しかない場合は、その後は賢幸丸が知行するとし、女子もない場合は賢幸丸が永代知行することを認めている。ともあれ、譲状の所領をみれば景勝とその子致家、孫の賀幸丸・賢幸丸は致弘の子孫である。ただし、致家の官職「掃部左衛門尉」は致治の父致義にちなむものであり、景勝と致治系女子との間に生まれたのが致家であろう。その結果、両系の文書が一括して残されることになった。ただし、反幕府方としての軍忠状などは意図的に残されなかった。
 ブログの記事を確認したが、「内田氏と俣賀氏」(致義を上俣賀家の庶子とした)「俣賀氏について」(致義を下俣賀氏惣領とした)は根拠を示して述べているが、少し考えすぎた結果の記事となった。混乱を避けるためには削除した方がよい気もするが、とりあえず思考の過程として残しておきたい。今回述べたのが現時点の考えである。関係人物の生没年代を想定しながら得た結論である。南北朝初期の致義は上俣賀家惣領であり、文書を残したのは致弘系=下俣賀氏であるが、上俣賀氏との婚姻関係により得たものである。

« 俣賀致弘について1 | トップページ | 俣賀村と俣賀氏1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 俣賀致弘について2:

« 俣賀致弘について1 | トップページ | 俣賀村と俣賀氏1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ